取り除かれない話

永遠性を標榜して書いている文章だから、本来は個人的なことは取り除かねばならないのだけれども。

http://d.hatena.ne.jp/nuc/20080327/p1

慶應義塾大学理工学部吉田和夫教授が先日なくなられた。

そう近所の幼稚園の先生から聞かされたときには衝撃を受けた。

幼稚園の先生といっても実は教授と同い年の男性でしてね。一緒に呑むこともあったそうですよ。
昔は自転車で日吉まで通っていたとか。そんな話もしてましたね。


最後に教授を見たのはテレビを通してだった。大学二年の4月だろうか。朝のニュース番組に取り上げられていたのだと思う。
「時はすべての人に平等に流れるけれども、すべての人に平等に働きかけはしないのか。」*1と思ったことを思い出す。


そのときその場にいた人にもうひとついわれたことがあった。
アトランタに私が行っている間、ある子供がそこはかとなく僕に似ていて、奥さんがすごく僕を懐かしがっていたと。


さて、いまも懐かしがってくれることはあるのだろうか。

*1:最近、書いたときは「歳月は平等に流れるが公平には働かないのだな」

音楽

日本に帰ってきてから、この奥さんは僕の音楽の手ほどきをしてくださった。

私の音楽的な感性はひどいものだが、それでも絶対音感があるのはこのあたりからはじまるのだろう。


いつだったか、母が留守にするというので預かってもらったことがある。たしか、そのとき昼に焼きそばをご馳走になった。日本では食事の後に「ごちそうさま」というがアトランタにはない。それまで外と内とで異なるマナーを使っていた私は注意されて初めて「そうかここも内側なのか」ということを理解したのである。
それ以来、外でも食事の後に「ごちそうさま」という習慣がついた。そのおかげか外食すると割りと早く常連扱いしてもらえるようになった。


もしも、私が日本人としての振る舞いを身に着けているならば、そのうちの少しはこの方のおかげである。
もしも、私が日本人とはとても呼べないようなら、それはもちろん私の責任である。

手紙

あの家には二人の娘がいた。仮に N ちゃんと M ちゃんとしよう。

私の日本での人間関係は N ちゃんから始まる。最近、Y くんが N ちゃんと一緒に私と初めて会ったときを覚えているといっていた。そのときのことは Y くんにいつか聞いてみたいがそれはまた別の話だ。
子供が飛び跳ねて遊ぶと下の階に響くこともあり、両親達は近所に配慮して上の階の我が家で遊ばせたがった。下が吉田家ならば少々のことは構わないだろうということだった。
ところで、私の家にはアトランタで買った二段ベッドがあった。西欧の文化では赤ん坊のころから子が親と離れて寝る。それを踏襲したのか、わりと早い時期から子供達だけで寝ていたのだ。
ある日、小学校の帰りに疲れて私はベッドの上で眠りにつこうとしていた。ドアフォンが鳴って母が開ける。母は、はいいらっしゃい、といって二人を招き入れた。「遊ぼう遊ぼう」と揺り起こされて、私は N ちゃんをぶった。いや、何も言い訳はすまい。書きたくはないが、その後にびっくりしている M ちゃんも。

二人は泣きながら帰った。
しばらくしてから、まだしゃくりあげている二人は手紙を持ってきた。
そこには

ごめんなさい
でも、K くんのことはまだすきだよ
N & M

とあった。ええ。
私は母に「なぜにごめんなさい」なのかを聞いた記憶がある。


差出人は覚えてもいないであろうこの手紙だが、それは私の心をゆっくりとえぐり、実に17年ものトラウマになっている。

大きくなるにつれて
知識ばかりが
先走って
変にいろいろ
考えすぎるから
身動きが
とれなくなる

世界で一番大嫌い 一巻P.138 (日高万里 白泉社刊)


自分を許すというのは、本当に難しいことだ。

ギルガメッシュ

大学のころに書いた文章の前半を少々直して。

過去は確固としてあり、未来は不確定だという考えがある。だが、過去も不確定だろう。物理学の根底にある法則は時間対称な形をしている。そして何よりも人の記憶は容易に変わることを私は知っているからだ。不確定な過去は、口から紡ぐ言葉という無意識の意図で縛られる。
さて。どこから話そうか。前振りはどうしても大きくなりそうだ。
昔の僕は、だいぶ今とは違う。中学入ってから50cmは背が伸びているし、あの頃は、人の心がすっと分かったりと今よりもずっと利発だった気がするが、本当に何も知らなかった。


三つの時、父親の転勤でアトランタに引っ越した。色々な経験をしたよ。あの言葉の壁に文化の壁に押し付けられる痛みをよく覚えてる。といっても、すぐに現地の人たちとあまり変わらない状態になったのだけどね。日本語も両親が気をつけていてくれたおかげで問題なかったし。日本人のコミュニティーがあったと云うのもある。
で、小学校の始まる四ヶ月前にアトランタから帰ってきて、また再び日本という異文化の中に放り込まれた。米国への適応よりも、こっちのほうが遥かに苦痛だった。言葉は分かる。でも、日本の文化が、というよりも宗教が、といえばいいだろうか、分からなかった。日本文化といえば、多くの人は「魚を生で食べる。」だとか「家の中で靴を脱ぐ。」といった見えることを思い浮かべるだろう。だが、そこは本当に氷山の一角なんだ。文化は、「挨拶」に「謝罪の仕方」、そして「善悪」や「考え方」までをも規定する。現象学的社会学が唱えるように、文化は本質的に宗教的構造を持つのだ。そして日本人は最もこの宗教に偏執している種族だと思う。それはほとんど異教徒をみたことがないから。「AだからBだ。」と何気なく私が言った時に、「何を言うか。AだからBでないに決まっておろう。」と主張され、そして皆がそう思っていることが分かる。なんだろうか、こういうときに使う感情表現は。怖かった、であろうか。アトランタへ帰りたいといって母に泣きついたことが何度もあったよ。もう、今はあの頃どう感じてどう考えてたかは分からない。でも、帰りたかった。それだけは憶えている。
その中では、マンションの下の階に住んでいた幼馴染達が一番安心できる友達だった。特に同い年の N ちゃんはしっかりしていて、僕に日本をゆっくりと教えてくれた。気がつくと僕は日本人になっていた。ギルガメッシュ叙事詩のエンキドゥが人となったようにね。

辺を欠いた三角

そういえば、小学校の高学年の時に私が N ちゃんと幼馴染だという理由で(と私はいくつかの状況証拠から解釈しているが)徹底的に嫌がらせを受けたこともあった。
おそらく誰も気がついていないが、表面上仲良くしながら水面下で戦争をするのはなかなか大変なものでした。いやそんなこといわれたってねえ。


古い文章がでてきた。

"〜〜"。ひさしぶりに懐かしい名前を思い出す。腕白な影のある少年。仲が良かったか、と聞かれると彼の家に遊びに行ったこともあるくらいよく遊んでいたし、嫌いではなかった、と答えたい。
N ちゃんに恋していたことからはじまるのか、或いは無関係なのか、少なくとも逆の因果関係でないことははっきりしているが、僕に対する憧れと妬みとを強く持っていた。表向きは仲良くしていたが、裏では私を散々に叩いていた。いや、この表現は不適切だ。クラスの人には私と仲がよいことをアピールして私の光を発しているかのように行動し、真似をし、或いは、私のよきライバルであるかのように振る舞い、そして、私にできるだけ心的ダメージを与えるようにしていた。あ、それに物的ダメージも少々。今、25:30。彼の嘘と仕打ちとを侮蔑を含んだ軽い笑いと、そして柔らかな怒りとともに思い出している。でも、彼を嫌いにはなれなかったな。彼は心の奥では孤独で弱くて、僕は撥ね退けられなかった。

でも、こうやって人は戦う方法を覚えていくのだよ。

卒業式

卒業式の日。僕は教室に愛着があったから最後の方まで残っていた。もう、ほとんど人のいない教室を出て、急いで階段を駆け下りた。ふっと、今追い抜いた人に見覚えがあって、初めの踊り場で踏みとどまって上を見た。N ちゃんだった。彼女も階段の上から数段目で足を止めた。目があった。何かを言おうと思って、僕は小さく口を開けたが、すぐには言葉が出てこない。ちょっと考えて「あること」を言おうと思ったが、その言葉が「ああ、そうか、別の世界に旅立つのか」と教えてくれたので、何もいわずに階段を駆け下りることにした。

ニアミスすることはあったようだが、予想通り、それ以来 N ちゃんを見ていない。


もっとも、この時期に周りにいた人々に興味があるのは、ちょうどそのとき強烈な衝撃を受けた僕だけなのかもしれない。少なくとも、もう一人の幼馴染 R ちゃんに連絡をすることがたまにあるのだが、あまり反応は芳しくない。
そういえば N ちゃんはしっかりした子だと思っていたが、18年間私と同じ学校に通っている友人がそうではないと思うよ、と述べた。そうかもしれない。見知らぬ地で初めて頼りにしたというバイアスが強かったのだろうか。


今、N ちゃんは仕事のことも家族のこともつらいだろう。
また会えればいいが、そういうことがなくても小学校を出てから20年経ったら連絡をつけてみよう。そのころには、あの子も立派な母親になっているだろうし、私もまっとうな社会的身分が与えられているとよい。そのときに、あの時言おうとしたことを伝えよう。

同窓会

とある同窓会を主催した。幹事をさせられた、というべきかな。会うのは実に10年ぶりだ。
20人以上来て、成功だったといわれたのだが、実は私は別のことを考えていた。
来るか来ないかは名前を見れば大体分かる。

  • どれほど所属意識があるか
  • 社交的か
  • 誰が誘ったか
  • 現在の身分に満足しているか
  • 現在の立場にその集団がつながっているか

そのあたりだ。


たぶん、もう5人ほど仕掛けかたを間違えなければ呼べたと思う。
といっても、心理的手段で人を動かさないという制限を自分にかけているから、それを破らないとできないことだし、それに公平性を気にして全員に同窓会の存在を知らせるのに忙しくて手が回らなかったから仕方ないといえば仕方ないかなあ。


終わった後に、偶然会った参加者がこんなことをいっていた。
「楽しかった。実は直前までひよっていかないつもりだった。でも、もう大丈夫だ。」
誰だって怖いんですよ。久しぶりに人と会うのは。

中の人のぼやき

もともと、「白のカピバラの逆極限 S144-3」というのは人為的に作られた影法師なのだ。


大学に入ったころ、私は大学が嫌になっていた。正確には本当に自分が嫌になっていた。


そこで私は色々な人に聞いて回った。「どうしてこの大学を選んだの?」
色々な答えがあった。
だが、僕はある答えを聞いたのを境にこれを聞かなくなった。
その子はちょっといたずらっぽく笑って、こう答えた。

親の脛はかじれるだけかじっておいたほうがいいでしょ?

ちょっと考えた後、私は自分が甘かったことをはっきりと認識した。


少しして、私は永遠である何か、というものを作ろうとした。
高校のころユングの影響を受けていたこともあって、人の中には色々な観念複合体が存在している、と考えていた。そういうものをもうひとつ増やすのは造作ない。
永遠の少女を呼び、そして、その子に自分の知識をあますとこなく与えるとともに、ジェンダー概念に関する克己、知的誠実、平等、配慮しないこと、固定観念からの脱却、そういったことを命じた。


作りきれたか、といわれたらノーだ。
本来はあらゆる人に同じように振舞いたかった。崇拝されたくなかった。恐れたくなかった。


それでも、ほぼ目指した通りにしっかりとした複合体になってくれて、自分とは異なるものだということを意識しなくてはいけないようになった。
今後もこの子は生き続けるのだろう。ひょっとすると私が死んでも。


あるいは、私が作ったというのは思い込みで、どっかからやってきただけだったのかもしれない。
そうならば、いつの日かまたふらりとどこかへでかけていくのだろう。

夏の夜の散歩

ついでなので、他の名義の文章を写しておく。

夏の夜の散歩

夜風に誘われて真夜中の散歩に出かけることにする。

近くの公園へと向かう途中、虫の鳴き声が聞こえる。

夏だ。


街路灯に集まる羽虫を追っているコウモリがいないかを探す。
ここらではもう少し遠くでしか見たことがない。
ねぐらになるような場所がないのだろう。


星が綺麗だ。
星座の名前なんて分からない。
でも、何万年も前の光が何億年も変わらずに降っている
ということ、それだけでいい。


目的地に着く。
ちょっと警戒をしてから緑道に足を踏み入れる。
硬い空気が自分の体温で溶かされて
ゆっくりとなじんでいく感覚は
ここちよいものだ。


石畳を懸命にセミの幼虫が横断している。
脱け殻と違い、何とも云い難い重量感がある。
そっちじゃないよ、と拾い上げると六本の足を広げて嫌がる。
近くの木の幹に止まらせると大人しくなった。
ここで羽化をするのだろう。
何年もの生涯が最後の一週間で無に帰すとしたら
それはそれは必死になるのだろう。


道なりに進むと、口の周りを泥で汚した猫が
大きな木の根元からいぶかしげにこっちを見上げる。

ひさしぶり

と僕は声をかけるが、
この子は鬱陶しそうに挨拶をした後、
下を向いて食事に戻ってしまう。今日は忙しいようだ。
この間は石の椅子に一緒に座っておしゃべりしたのに。


――そして僕も蚊に刺され、生態系の一員であることを実感するのだ。

再帰性

カリー化のよさは関数の用途が広がるところにある。
とかいいながら http://ripjohn.net/ 御中の宮川拓と議論していたんだが

http://gusmachine.blog49.fc2.com/blog-entry-18.html

純粋Curry化批判
関数のCurry化は別になくても良いような気がします。Curry化によって特別な表記や関数なしにbind1stを記述できますが、与える引数の数やら引数の範囲やらを明示出来れば「関数の引数が足りないよ」とコンパイルエラーが出て便利です。
Curry化されると部分適用が簡単に書けるといいますが、簡単に書けるのは第一引数だけです。
一方、Curry化があると確実に良くなることとしては、関数の型が簡単になることが挙げられます。Curry化が無いと、引数の数の異なる関数同士をどうやって多相的に扱えばよいのでしょうか。私にはよくわかりません。bind1stやflipのような関数を書くのに苦労しそうです。C++のboost
のように、引数の数に応じてたくさんの記述をしないといけないのでしょうか。

に両方の意見があるじゃないか!!

Set にしても Category にしても、set を element とする set があり、functor を object とする category があるというところが、豊かさを担保しているような気がする。

プラセボ

プラセボ効果が不思議なところは、それがマイナス効果と相殺してもプラスに効くことになっているところだ。


人は複雑な系なのだからある摂動を加えたときにその結果が「よい」という極めて高級な概念に合致するのは不可解だといわざるをえない。
とくに「「思い」が全てを変えてゆくよ*1」というのは、典型的な生得的でナイーブな考え方なのでどうしても疑わしくみえる。


というわけで、医学部の学生に資料請求をしてみる。


雑なまとめ of A Comprehensive Review of the Placebo Effect: Recent Advances and Current Thought (Annu. Rev. Psychol. 2008.59:565-90)。

いろいろな機構が働いていそう。
神経生物学的には、無痛覚の効能はしっかりとあるようだ。脳内麻薬でているっぽい。
古典的条件付け(ネズミに薬とサッカリンを与えておいて、薬を切ってもよくなる)が働いているという報告もある。

まあ、なんだ。脳はホルモン出しまくるから感情その他の意識は体に影響を与える。無意識の古典的条件付けによると思われる効果もある。
結構、科学的に分かっているようだ。あとは心-脳-体の関係を分析すべし。

*1:プラチナ 坂本真綾

乖離

法学を学ぶとだんだん一般人から感覚が乖離してくると憂慮している方がいたがそれは違うのではないだろうか。
学問を修めるのはよりよい思考を求めているわけで、学んでも感覚が乖離してこないなら、そんな学問の価値は任意の"数"イプシロンよりも小さい。

ホモサピエンス

いい加減、人はどうしようもなく愚かでちょっとしたはずみで罪を犯すということを認めよう。
気違いだと認定すれば殺していいし、私刑を加えて殺しちゃうのも普通だし
ホモサピエンスってそういう種族なんですよ。


正直、僕はどっちでも問題ないんで構わないんだけれども。*1

*1:もちろん冗談です

自然数概念

リンゴ二つとミカン三つは足せるか、というのは面白い問題だと思う。
リンゴがそもそも数えるのは、たくさんのリンゴの個体から大局量を作ることに意義を見出せるからであろう。
そうなると、リンゴとミカンの数をあわせた大局量は作れる。その意義はひとまずおいておくにしても。

1.5人

0.5 が有理数であるのが何よりも問題だと思う。
人間同士を掛け合わせても子供が生まれるだけなので、代数的数ならよかった。超越数だったらなお良かった。


つまりですね。
頭数を数えるという行為が本質的に非人間的なんだと思います。
(後々の読者のために。これはどっかの大学の先生が幼児と大人の殺害犯の死罪判決を指し1.5人しか殺していないのに不可解と記述したところ社会問題となった件を踏まえている。
実際、π人殺していないにも関わらず死刑になった画期的な判決であった。)

物質科学

物質科学が他の学問よりも大きな顔をしているのは、我々の豊かさに対して、後者は任意の数イプシロンよりも小さな貢献しかしていないのに対して、前者は任意の正の数イプシロンよりも小さな貢献をしているからである。


……すんません、語感だけで書きました。

異文化交流

http://d.hatena.ne.jp/kasoken/20080625#p1 のコメントに

硬化ではなく、重合と呼びますね。

とあった。いや、光硬化性樹脂とも呼ぶよなあ、まったく、と。


日本の経済学の悪いところは equilibrium を均衡と訳すところだ。
物理学の悪いところはエルミート内積の反線型なのが左なところだ。
ドイツ語のよくないところは体が非可換なところだ。
光学の悪いところは左偏光が。
結晶学の悪いところは、たしか格子定数あたりで双対ベクトルを使うかどうかが。


complex が複素数だったり鎖複体だったり、complete が完備だったり完全だったり。

内積

Varian (Micro-economic analysis) を読んでいたところ、なぜか内積\mathbf{xx} となっているのを発見した。
にも関わらず、\mathbf{x^t}\mathbf{D}^2\mathbf{x}のように、行列をはさむときには転置を右上につける。ちなみに添え字も右上につけて {s,t} が多い。
これって経済では一般的なのかな。

途中で気がついて巻末の Mathematics の章を読むまで、頭の中でくるくると縦にしたり横にしたりしてみていたんだがコンシステントにならなくて。


多様体論だとかモース関数論だとかへのモチベーションがわく。
なによりも、テンソル記法がきわめて自然だというのに気がついたのが大きい。

ルジャンドル変換

代替効果を用いる定義では、3財以上のモデルであっても、常に
\frac{\triangle x_1}{\triangle p_2}\mid_U = \frac{\triangle x_2}{\triangle p_1}\mid_U
が成り立ち、第1財が第2財の代替(補完)財であれば、第2財も第1財の代替(補完)財であることが数学的に証明できます。

というのでちと考えてみた。


一般的には the expenditure function の二階微分同士になるので等しいのは明らかなんだが、どうもどっかにルジャンドル変換があるように見える。だが、見つけられない。実射影空間上で考えるとかしなきゃいけないのかな。

消滅と顕示原理

7/6の日経新聞にテレポーテーション型量子計算に関する記事があった。
量子テレポーテーションで送った「光子や原子は消滅する」と書いてあって愉快に思った。
正しくは「光子や原子の状態は消滅する」だと思われる。
重要ではあるが、部外者には無害な勘違いである。
文字数を削らなきゃと最後に消したのかもしれない。
指摘されても何が違うのかはおそらく分からないだろう。


遠隔地の一卵性の双子が感覚を共有しているという話があるように双子の光子もエンタングルしているのだ、とあったのはどうしたものか。うまいたとえですね?


もうひとつ気になったのは、一番初めの導入部分でオークションが出てくる。全員の入札価格を公開せずに最大値を求めるような量子アルゴリズムが存在するということだった。
これって、ある種の問題が解けないことを仮定すれば古典的にも事実上実行できるような記憶がある。


オークションといえば、諸事情で理論に興味を持っていたところに
http://theorist.blog6.fc2.com/blog-entry-96.html

横尾真. オークション理論の基礎: ゲーム理論情報科学の先端領域. 東京電機大学出版局, 2006.
http://lang.is.kyushu-u.ac.jp/~yokoo/index-j.html

が紹介されていたために、ついうっかり読んじゃった。


そしていまさらだが勝者の災いクイズを理解した。

あなたは投資家で,ある会社を買収しようと考えている.
その会社の正確な価値 v は分からないが,区間 [0, 100]
の一様分布であることは分かっている.
その会社を買収すると,あなたはその価値を50パーセント増やして転売できる.
買収価格 b を提示すると (提示は一回のみ可能),その会社のオーナは b > v
なら買収に同意する(オーナは真の値を知っている).
価格 b で購入した場合のあなたの利益は 1.5v-b となる.
買収価格 b としていくらを提示すべきか?

なるほど、条件付き確率の演習問題には思えなかったのだが、今は分かる。
つまり、b を提示してアクセプトされた瞬間に会社の価値の期待値が b/2 に転落するから必ず損すると。


コメント欄の顕示原理の使い方が本当に面白いなあ。なんか噛めば噛むほど味が出てくる。


ここに確率が出てくるのは、この概念が相当普遍的であることを。
いや、そうではないか。効用の定式化の仕方か。

確率論

たしかに、主観確率は頻度確率に支えられている。


ところで、たとえば将棋である局面を考えよう。そのときに、先手が3割で勝てる、といったときに、それは確かに頻度確率によって支えられているが、全く同じ局面になった過去の対局を集めてきて3割と計算しているのではなくて、ある種の同値類で局面を割って、あるいは似ている局面を集めてそれらに重み付けをして平均し、優勢劣勢を評価しているのではないだろうか。


ミクロな自由度が観測も制御もできないとしてもそれが決定論的に振舞っている限り事実上分かると思いたくなる。
決定論は、外延的にはある時点ですべての物事が分かったときにその後のことがすべて分かるということなのに、なぜか前提条件が崩れていても使いたくなるのか。

知っていることを知っている

ぴらから。どうやら、彼は知識の共有について、考えていて、個体と世界とを入れ替えると、並列性と非決定性とが入れ替わるようじゃないか、といってきた。これ自体は良く分からないのだけれども、どうも多世界解釈コペンハーゲン解釈が絡んでいるような気がする。
つまり、二つの解釈が全く同じであって差がない、ということを知識学のようなものから示したのではないかな、と。


多世界解釈は、ある意味人の限界で、系を決めないと話が始まらない。


以前、ぴら(http://log.pira.jp/)と、事象 X について A が知っていることを K_A X とでも書くことにして、人が複数いる状態でこれの生成する半群K_A^2 = K_A 以外の関係を持つか、というのが議論になった。
どうも持たないようだが示せない、ということになったのだが、
http://wiredvision.jp/blog/kojima/200712/200712071100.html
http://www.econ.hokudai.ac.jp/~kudoh/Summer/OtaruLecture_emailgame_slide.pdf
に答えがあった。ようするに(K_A K_B)^n は任意の n で異なるということらしい。

お札

簿謝の中は同種のお札が5枚だった。ただ、量子力学とは異なり同種粒子も区別できる。触れた瞬間に違和感があった。これで偽札を見つけたら大手柄だがそういうことではない。
よく見てみると番号が x+0, x+1, x+2, x-1, y という並びをしていた。


妙なシグナルを受け取ってしまった。

過剰参入定理

ここには書かないつもりだったけれども、いいや書いちゃえ(顔。この「白のカピバラの逆極限 S144-3」はこういう目的のために作られた(人)格なのだから。


以下、結果を見せられた感想を論文から補強したもの。


モデルとしてクルーノーの寡占モデルっちゅうのをとる。
会社が n ある。それぞれが、z_i 生産する。
p を逆需要関数としよう。つまり、市場に x 商品があったときにつく値段が p(x)。
まあ、なんか適切な条件下では Symmetric Cournot Equilibrium (対称クルーノー均衡)というのがあって、すべての会社が同じ生産量作るところで平衡に達する。
状態としては、ある会社が増産すると市場流通量が増えるから価格が下がって利益が減る。逆に減産すると価格の効果が十分でなくて損をする、というところだ。
もちろん、各会社は利潤\{z(n)p(nz(n))-C(z(n))\}を最大化しようとしていると考えている。
このときの会社数に対しての各会社の生産量を z(n) とする。


社会効用 W をW = \int_0^{nz(n)} p(x) dx - nC(z(n))と定義する。
後半は生産コストだから自然。
前半は少しややこしいのだけれども、p(1)っていうのは、1番高くその品物を買う人はp(1)までお金をだしてもいいといっているから、この人はこの品物をp(1)の価値と等価とみなしているってことになる。
2番目に買う人はp(2)までだしていいといっているのだから、……とかんがえていって最後まで行くと積分になる。


また、参入は利益がでているあいだ続くと考える。つまり、\betaという適当な正の数を用いて\frac{dn}{dt}=\beta \{z(n)p(nz(n))-C(z(n))\}。まあ妥当。



で、過剰参入定理というのは、参入に制限をかけるとより社会効用が増えるという定理だ。
だが、参入が止まる企業数と社会効用が最大になる企業数、この二つが異なるのは自明だと思うんだ(。もちろん、価値があるためには自明でない必要があるわけではない)。
というのも、いや、ってういうか一緒になる理由どこにもないし。


その前に、C が線形であったとしよう。こうすると nz を保存する任意の (n,z) の変換に対して任意のパラメータは保存する。
よって、C の非線形nz が保存しないこと(20080811修正)がこの定理に対してきわめてクリティカルであることが容易に分かる。


本題に戻ろう。企業利益が 0 の企業数周辺で企業数を少し変化させたとしよう。
\frac{dW}{dn}=p(nz(n))(z(n)+n\frac{dz}{dn})-C(z(n))-n\frac{d}{dn}C(z(n))
企業利益が0であることから
=p(nz(n))n\frac{dz}{dn}-n\frac{d}{dn}C(z(n))
ちょっと整理して
=n\frac{dz}{dn}(p(nz(n))-\frac{dC}{dz})
=n\frac{dz}{dn}(\frac{C(z(n))}{z(n)}-\frac{dC}{dz}) < 0
というのも、n は明らかに正。\frac{dz}{dn}は負。最後は、マージナルコスト(つまり生産量を少し増やすのにどれだけコストがかかるか)が平均コストより大きいかでこれは「大量生産すればコストが増えるってことはまずなくて、ここが線型だと上の議論から0になって定理が成り立たなくなるから、仮定して」正。
これはまさに企業が増えると生産効率が悪くなる効果を示している。


ここまでは前提を見てちょっと考えたら数式なしでほぼ直感的に分かったが、なぜか次は手を動かさないと理解できなかった。
消した分を戻してやれば常に成り立つ式になっていて、企業が利益を上げるために手を抜く分がひかれていることになる。
逆にいうと、スケールメリットと競争効果(だっけ)のせめぎあいになっている。

さて、なんでこれほど自明な定理が1980年代まで発見されなかったのだろうか。
市場経済を礼賛しすぎるのはアダム・スミスの悪しき影響だと私は考える。有能な何かが効用を最大化する計画をたてれば by definition でそれ以上優れた経済はない。(この場合だったら、一社のみに生産させて、生産量が社会効用を最大にするようにするのが最適な計画だ。)
この定理の発見が遅れたのはこの影響を強く感じる。あとは NASA?
人間の頭のとれる状態は所詮有限だろうから、計画にしても市場にしても厳密にマルコフ過程で記述できるだろう(、もちろん状態空間のサイズを度外視はしているが)。


残念なことに、実際のところこの程度のことができるほどの能力のある人間すらいない、ということはある程度能力のある方々ならよく分かっているだろう。

貧者の一灯

Welfare があの形をしているのは株を用いてなどではなく、ミクロ経済の切り出し方によるのだと思う。あるものを作るのにどの程度のコストがかかっていてどの程度のコストまで払えるものがどの程度のコストで手に入ったか、だからだ。

お金自体には価値がない。間接効用関数が0次元に同相だ(標準的な訳を知らない)というのが端的にそれを示していると思う。

極端な話、紙幣を焼却するのを生きがいとしている企業でも構わない。

逆に、すべての人がだいたい同程度の金銭的権限を持っていることがミクロの切り出す近似がうまくいく条件な気がする。

理物の能力

少し古い物理学会誌に1965年の東京大学物理系学科の高校力学の能力に関する言及があった。静岡の優秀な高校とフランスのリセと比較したものだ。


その内容は、おおむね良いものの意外とできない問題がある、というものである。
たとえば、二割の学生が微弱な摩擦のある氷の上で円盤を滑らせたときに運動方向に動力がかかる、と答えたそうだ。
物理系学科って何だ、ということになった。
周囲からは理科一類ならば納得するが理学部物理学科の人ができないとは思えない、という声もあがった。


だが、私はまったく違う点から興味を持った。これは1965年の結果(1962年の調査)である。つまり高度成長期に入るころの教育を受けてきたと考えられる。


このころ教育はごく一部の人間に独占されていたと理解している。


よほど有能な学生は教師に見出されて適切な教育をうける機会がなかったわけではないだろうがきわめて限られていただろう。また教わることがあっても、それは体系だったものではないであろう。現代の東京圏のように受験技術へのアクセスやそれを生業とする人々があったとは考えにくい。そのため、特定の家に生まれれば、ほぼ無条件で学歴が手に入ってたのだと。
平均の底上げと母集団の巨大化とは上層部の能力を飛躍的に増大させる。これが起きたのが教育への余裕がでてきた高度経済成長期と優秀な学生が予備校教師になる羽目になった全共闘だと考えている。そして、第二次ベビーブームあたりでピークをむかえ、少子化と学力が豊かな生活を保証しなくなったバブル崩壊によって少し質が落ちる、そういう印象を抱いていた。


この証拠になりうるのではないか、そういう考えだ。


こういうときは原本に当たるというのが鉄則だと思っている。
国立研究所紀要第46集「物理学の基礎的な考え方の理解の実情」という古い冊子ではあるが幸運にも大学図書館にいくつか所蔵されていた。

VII
(2)
平らな氷の面の上に質量490gの円板が滑っている。この円板と氷の面との間には僅かの摩擦力がはたらく(空気との摩擦は無視してよい)。このとき「この円板に実際に作用している力を列挙し、図に書きこめ」という問題に対して、P君は次のように答えた。このうち正しいものがあれば○を、間違っているものがあれば×を、それぞれ左の□の中に書きこめ。
□ア重力(W)
□イ抗力(N)
□ウ動力(M)
□エ慣性力(I)
□オ摩擦力(R)

(実際は図がついており、Mは円板の先頭から運動方向に、その他は重心から四方に伸びていた。)

20%が間違えたと嘆かれていた。逆にいうと、このレベルの問題が並べば80点になるということだろう。ただし、問題のタイプが珍しいので読み違えた人は多いのかもしれない。

IX
(1)一様にざらざらした斜面に、下図のように直方体状の物体(密度および接触面は均一)が斜面との間に働らく摩擦力によって、滑り落ちずに、静止している。この物体にはどんな力がはたらいているか。物体と斜面との間にはたらく摩擦力と、物体にはたらく重力とが図のように表されるとするとき、そのほかにこの物体にはたらく力があれば、下図のなかにかき入れよ。
(2)上のような場合に、この物体が斜面に直角に及ぼす圧力について、下のア〜エのなかから正しいと思われるものを選んで、それに○をつけよ。
ア 下側(A)の部分のほうに、上側(B)よりも大きな圧力がかかっている。
イ 上側(B)の部分のほうに、下側(A)よりも大きな圧力がかかっている。
ウ 物体の底の面にはたらく圧力は、上下によらず、一様である。
エ 斜面の角度によって異なるので、なんともいえない。
(3)上の物体が斜面に接している部分の下半分にろうをぬって、その部分にそってはたらく摩擦力をへらしたが、物体はすべりおちなかった。この場合、底の面に垂直に及ぼされる圧力は、どうなっているか。下のア〜エのなかから正しいと思われるものを選んで、それに○をつけよ。
ア 下側(A)の部分のほうに、上側(B)よりも大きな圧力がかかっている。
イ 上側(B)の部分のほうに、下側(A)よりも大きな圧力がかかっている。
ウ 物体の底の面にはたらく圧力は、上下によらず、一様である。

面にそった摩擦力の差が上と下とでどれだけ異なるかによって、それぞれにはたらく圧力の大きさも異なる。

図には斜面の上に直方体状の物体が置かれており、部分Aは斜面との接触面のうちの下側半分、部分Bは上側半分である。


これを全問解けたのが52人で一人だったそうだ。(2)、(3)だけでもそれぞれ二三人の正解にとどまった。


ただし、この問題は全部で13問あり、それを1時間で解いたそうだ。ひっかかるかもしれない、とは思う。少なくとも、物理学会誌の印象とはだいぶ違った感じはした。

無限退行

地球温暖化問題懐疑論へのコメント
http://www.cir.tohoku.ac.jp/omura-p/omuraCDM/asuka/onndannka%20kaigiha%20hanronn%EF%BC%92.pdf
via http://d.hatena.ne.jp/buyobuyo/20080704/p1

前述のように、過去の気候変動で二酸化炭素やメタンを増加させていたトリガーは、気温であってもよく、これも含めて、現在の科学は以下の3つを同時に認めている。
1)気温が原因で二酸化炭素濃度が変わる
2)二酸化炭素濃度が原因で気温が変わる
3)近年の100年スケールの気温上昇は、2)がトリガーである

いや、恥ずかしながらこれが矛盾するような気がしてたんですよ。
単純にモデル化しよう。
現在が平衡に達しているとして、それに対して
\left(\large\begin{array}x_0\\x_1\\\vdots\end{array}\right)
とおく。ただし、現在の値を0となるように正規化しよう。t を時間として
\frac{d}{dt}\left(\large\begin{array}x_0\\x_1\\\vdots\end{array}\right)-\nabla U\left(\large\begin{array}x_0\\x_1\\\vdots\end{array}\right) + \left(\large\begin{array}p_0\\p_1\\\vdots\end{array}\right)という形だと仮定する。
人為的に摂動を加えることは、右辺\left(\large\begin{array}p_0\\p_1\\\vdots\end{array}\right)の部分に何らかの項を加えて平衡点が移動することに対応する。
ここからは平衡点でのみ考える。
このときにU\left(\large\begin{array}x_0\\x_1\\\vdots\end{array}\right)=a(x_0+x_1)^2+b(x_0-x_1)^2とでもしておけば 0 < a < b が成立しているとき
p_0を有限の値に変えて(おお、物理学者的有限の使い方!!)やると p_0 = 2a(x_0+x_1) + 2b(x_0-x_1) p_1 = 2a(x_0+x_1) - 2b(x_0-x_1)となるからx_0=(\frac{1}{4a}+\frac{1}{4b})p_0かつx_1=(\frac{1}{4a}-\frac{1}{4b})p_0だから a のほうが小さい条件下では成立する。

もちろん、このモデル化は相当適当だ。実際には平衡であるとは思えない。けれども、可能性があること程度は分かるだろう。
なんでこの程度のことが直感に反したんだろう。


平衡点まわりだというのに、気温があがると二酸化炭素濃度があがり、二酸化炭素濃度があがると気温があがる。つまり無限退行に陥る。したがってそんなことはない!!
みたいなね。


思うに、零回微分と一回微分と二回微分との区別が難しいからではないだろうか。

オラクル

現在の宇宙の任意の粒子の情報が手に入るようなオラクルがあるとしよう、物理学の価値観では、それよりも古典力学のほうが勝っているというのではないだろうか。
古典力学で、表せる系の範囲は現在の宇宙のマクロな部分よりも広い。そういう意味では量子力学では、起きない系、起きていない系というのが、起きている系に紛れ込んできている。
予測手段としての物理学として極めて有用だから「紛れ込んでいるとしないと本質的に予測できないようだ」というのはいいのだが、それとそのようにこの世の中がなっているというのはまた別の話ではないか。

安田事件

死刑廃止論で有名な安田好弘弁護士を強制執行妨害で逮捕された。
簡単にいうと、中坊公平弁護士率いる住管が不良債権を抱えた貸しビルかなんかの会社の粗捜しをしていたところ不正経理らしき痕を見つけ、刑事告発*1したところ偶然にも安田弁護士が顧問をしていて逮捕してみた、っていう事件。
検察側の主張によると、ダミー会社を作ってそこに財産を移すことが仮装譲渡にあたるっていうんで、
弁護側の主張によると、実体のある子会社を作りそこに賃料振り込ませるのは(借りたほうにも利益があるので)違法性がない。
っていうか、会社の経理検察側の証人にしているが、そいつが退職金名目で横領してたっぽいんだが。


結局、一審は無罪判決だったが、二審は罰金50万円だったそうだ。
マスコミが安田弁護士逆転敗訴というニュースを流していた。


しかし、私はまったく別のことを考えていた。求刑懲役2年で罰金50万円は値切られすぎだ。
これって検察側の敗訴じゃないのか。


分からんときには、とりあえず詳しい人に聞く。


「懲役だと欠格事由になって弁護士資格が取り上げられるから懲役と罰金では雲泥の差だね」
「無罪を主張しているんだから敗訴じゃないかな」
「検察官のキャリアに響くだろうから検察官も敗訴だろうね」
「実は勝訴敗訴はそれほど法学用語ではない。実際の法廷で使われることはまずない」


つまり、勝訴敗訴ということばをみたら、満足不満足という言葉に置き換えるのがいいんじゃないかな。

*1:で、いいんだよね

ロー

ロースクールが、試験勉強に必死な狡い人間ばかりでいやになるとかいう文章を転載してもよいといわれたのだが生々しかったのでやめよう。

2009/7/31 追記:
これは、内田教官の退官に伴いお別れ会をやったが試験前だったためにドタキャンが相次いだことに関するものでした。

受信料

NHK の受信料が憲法84条違反か。NHK の受信料は日本放送協会受信規約によって決められているが、これは租税は法律で行われなくてはいけないという84条に違反してないのか、という質問に NO と答えているのを見た。
つまり、憲法84条と抵触して問題になりうるためには、「(「NHKが行政機関である」かつ「課税権に基づいている」)または「租税に類似する」」という、より「受信料が強い性質」を持たないといけない、からだ、というところに不思議さを感じる。

アメリカの大学のレベルの低さ

院からアメリカに飛んだ人たちの話を総合するに、どうやら、アメリカの大学のレベルは本当に低いらしい。

「俺が神扱いなんだけれども」
「特に大学から{某有名私大}にきた日本人はどうしようにもない。無能な上に自尊心が高い」

数学物理が高校レベルというのは昔から聞いてはいた。

たしかに、大学から院に進む人は少ないと聞くから、アメリカの大学の研究成果は学部生のレベルと無関係だろうし、
それと、大学後半に相当な力をもらっているから、東大の二年生を見てもこんなんだったっけ、ということがどうもあるようだ。

結局、東大にはなかったものが世界にはあるだろうという願望が、あるとしたらアメリカだろうという推測と相まって、幻想を生んでいるのかな。


でも、不思議なんだよな。外からはすさまじい人がいるように感じられる。人は成長するということなのだろうか。
それと優れた人同士集まる傾向があるのと力を隠す羽目になる人が多いのだろうか。どこでも一緒なんだろうね。

理解の階層性

同じ「理解した」という言葉でも人によってその程度はあるし、どうやら優れた人ほど多くのことが理解できないようだ。

とある、数学が極めてできる人が、教養学部時代に熱力学を「これはまったく分からない」といっておきながら、みながぼろぼろの中間テストで満点をとっていた。

(あ、これは激烈に悪い例だな。教養学部の熱力学だったら、多変数関数の微分を分かっていれば、物理的な意味でほとんど理解せずに解ける気がする。)


質量の保存概念が身につくのは7歳ごろといわれている。

食物禁忌

http://d.hatena.ne.jp/nuc/20051107/p9

日本人の宗教上の食物禁忌は特殊だと私は思いますね。あれはどうもごっこあそびっぽい。(失礼。)

これを破られたら、同族だとは思えないという嫌悪感がまずあって、その上で宗教が明文化するのであろうが前者がない。

無限の概念

http://d.hatena.ne.jp/ytb/20080121/p1#c1200988883

物理学的にはっきりと無限だといえるものがあるかといわれると難しいので、イディアがあるとか、形式的に無限があるとする体系を考えるとか、あると便利とか、そういうこといわないと無限を扱うモチベーションは湧かないのではないかなと個人的には思いますが、論理学の研究をしている方がどう考えられるのかとっても興味があります。

型と整数

http://d.hatena.ne.jp/m-hiyama/20080118/1200624718 にしたコメント

proj<0>(each:List):car(List) is car(each);
proj(each:List):proj(cdr(List)) is
proj(cdr(each):cdr(List));
で、再帰的に定義でしょうか。
C++ Templates: The Complete Guide に似たような案が載っていましたが、あま
り美しくないような(^^;
それと、あまりにも複雑な型システムは、型システム自体が停止問題に出会って
しまいそうな気がします。

Haskell の名前付きフィールドを連想しましたが、たぶんそういうことではない
のでしょうね。

型パラメータと値パラメータは違うか、ということでしたら、
ペアノ算術風に
class ZERO;
class SUC;
を型で定義して、パターンマッチができるならば本質的には何も変わらず、
値パラメータは略記だ、と思えばよいのではないでしょうか。

以前、
http://ripjohn.net/diary/2008_04.html#D2008_04_05
mmap 0 = id

mmap 3 = map . map . map
というような関数を考えた。これは Haskell の型付けではもちろんできない。

うーん。きれいにこういったものを受け入れられるような型システムはあるのかな。
型ではないが template Haskell?

既習と未習の差

受験者数 合格者数 合格率
合計 既修 未修 合計 既修 未修 合計 既修 未修
東京大法科大学院 304 225 79 178 140 38 58.6 62.2 48.1

というデータをもとに未修が不利だとどっかのメディアが騒いでいたが、2シグマも差がないようにみえる。

止揚と矛盾

http://d.hatena.ne.jp/buyobuyo/20080627#c1214818898

科学史・科学哲学のことはあまり首を突っ込みたくないですが
> 「相対的に考えれば、地球は止まっていて、宇宙が動いていると考えてもいい」
というのは、物理学的には正しくて、力学を数学的に洗練した形である解析力学では一般化座標と一般化運動量の作る相空間上で話が進みます。
座標系が時間変化しようが構いません。

この辺が哲学としてどう解釈されているのかが興味はあるのですが見聞が狭いからか見たことがないです。
解析力学量子力学電磁気学相対性理論の理解においても重要なんですけれども。


いや、正直あんまり首を突っ込みたくない理由というのもこの辺にあって
ニュートンガリレイ不変概念を持っていただろうから
絶対座標概念をアインシュタインが覆して特殊相対論ができた、
という止揚史観やパラドックス史観には無理があるように思われるのにそのように読めてしまう文をたまに見る気がするからなのです。

インフレーション

インフレーション理論とは、宇宙初期に急速に大きくなった、という理論である。
では、なぜ急速に大きくなったと考えることになったのだろうか。


この宇宙は見渡す限りほぼ均一で平坦に見える。でも、量子力学によるとこれはおかしい。というのも、ビッグバンに向けてさかのぼると、ある時点で現れる狭い領域では量子揺らぎのために完全に均一にできることができないのだ。それを引き伸ばせば、(物質の密度が)しわしわな宇宙ができてしまう。


ここで発想の転換。そのしわしわな宇宙を思いっきりぐーっと広げる。広げる広げる広げる。そうすると、しわはあまりにも大きくなる。この宇宙に住む人が、しわのサイズよりもずっと狭い範囲しか見えなかったとしたら…
そう、それは光の速度を超えるものがないことからとても自然だ。


もう一回、まとめるとこうだ。ビッグバン直後、宇宙はとても小さかったからどうしてもしわしわができる。でも、現実の宇宙はしわがない。それは、しわのサイズが大きすぎるからだ。しわを大きくするためには宇宙を引き伸ばす、つまりインフレーションしていればいい。
しわ自体はあんまりにも大きすぎて見えない。見えるということは向こうから飛んできた光が目に入ることで、向こうからの光が遠すぎて届いていないところだから。でも、おそらくしわの向こうにはこのあたりの宇宙とはちょっと違う宇宙が広がっているのだろうとは思える。
もちろん、インフレーション理論の観測根拠はまた別のところにあるが、この理論はどんなにあがいても見えない場所まであるであろう、と予測させたのだ。


さて。ナイーブに観測されたものを実在と呼ぶならば、もちろん、この概念は well-defined ではないだろうが、実在に虚構を加えて対称性や構造の美しさを作る、というのは物理が頻繁にとる手法ではないだろうか。

宗教と愚行権

逆説的だが、自分に近い側を非難する傾向がないだろうか。
つまり、たいていの批判は「私が s/he ならば、こうは振舞わない」というのが原動力に思えるのです。


ユング様の原型論の影の投影(犯罪者顔。

差異に還元

http://d.hatena.ne.jp/feuilles/20080121#c1201263609

せっかくなのでちょっと違った視点からいくつか。

画一的に見える理由のひとつは、単純に、分類しないと認識ができない、というところにあると思います。
特に人や社会のような複雑な対象を扱うときには、どうしても大きく切り出すしかありません。そうすると、どうあがいても画一的と呼べてしまうのではないでしょうか。つまり画一的なのはお互い様だという議論は妥当であると同時に妥当すぎませんか。なので、どのような距離で画一的なのか、に目を向けたいです。どんな半順序が入るのかは知りませんが、入れ方によっては「善悪」も論じられるのではないでしょうか。

また、心地よいか否かで済むところはそれで全く構わないでしょうが、事実かどうかが重要である領域もあると思います。その意味では環境問題のファッション化が気にかかっております。これは同じ構造を持つと思うのですよね。いつ頃にルイセンコ学説のようになるか私は今から楽しみです。

以下は、ただの面倒な自分語りですが、日本文化に違和感が残った僕としては、画一的な生き方をしていると胸を張って述べられるのはうらやましいな、と思います。無論これは私自身のメディアからの大きな影響を否定するものではないです。

Somewhere over the rainbow

http://d.hatena.ne.jp/nuc/20080406/p24
いや、この関係で英文法書を繰ったんだが、時や条件を表す副詞節は未来も現在形だというのを思い出した。


どうも、未来形というものは本来なくて、現在形でも未来が表せるが意思をあらわすときにだけ will をいれる、という印象を受ける。

哲学哲学

定式化されきっていない分野を扱うがゆえに、自浄作用が皆無という構造上の問題があるように思える。
じゃあ、物理は自浄作用強いのかというとどうもそうではないことがようやく分かってきたんだけどね。

階層

http://d.hatena.ne.jp/potasiumch/20071208
ざっとまとめると、ドイツには徴兵制がある。

徴兵制は、

  • 階層化は不可避であるが、その階層間の対話を生む
  • 自分のこととして戦争を捉えられるようになる

のでよいということだ。


全順序が入るようで嫌な表現だと思うので、階層化と呼ばずに多様化と呼ぼう。

強連結成分分解。

いわゆる論理パズル

ド・モルガンを連呼すると無能に見える。


それよりももっと有名な定理が随所に使われているではないか。
なんといっても健全性定理と完全性定理。モデルの存在と論理的に導出可能の対応がなければ、場合わけすることに正当性が見出せない。


2SAT が P であることを示すときのように有向グラフにして、強連結成分分解すれば何と何が同値なのかが分かるし、そこまでしないまでも有向グラフをたどるのはわりと人間得意だからときやすい。
ただ難点は C -> A or B の形がでてくると話が少しややこしくなるところか。
しかし、この求め方はあるときにふと気がついて使ってみたが意外といけるぞ。


ある問題集にはダイクストラアルゴリズムがでていたが微妙に間違えている(^^ゝ。これのお世話にならない人はいないだろうからね。たしかにこれは重要だ。

J言語

http://d.hatena.ne.jp/flappphys/searchdiary?word=%2a%5bJ%5d
あたりに触発されてJ言語をちらりとみる。


J言語の fork が顔文字みたいだー。


ためしに、Haskell に組み込んでみる。

forks f g h x = (f x) `g` (h x)

g1 x =  denominator $ snd $ fst $ head $ filter ((==(-1)) . forks numerator (-) denominator . fst . fst) $ forks (map (r x)) zip id [1..]
  where
    fx = f1 $ Surd 0 1 x
    r x n = forks (((x%1)*) . (^2) ) (,) id $ toR $ take n $ f1 $ Surd 0 1 x

g x =  denominator $ snd $ fst $ head $ filter ((==(-1)) . forks numerator (-)
denominator . fst . fst) $ forks (map (r x)) zip id [1..]
  where
    fx = f $ sqrt $ fromInteger x
    r x n = forks (((x%1)*) . (^2) ) (,) id $ toR $ take n $ f $ sqrt $ fromInteger x

なんか妙に便利なんだけど。

s x y z = x z (y z) だから
forks f g h = s (g.f) h だ。


s のすごさの理解に一歩近づいたかも。

デュマ

浦沢直樹は大デュマに似ている、山の作り方が、と主張したところ、長編はどれもあんなもんじゃないかといわれた。
大阪大学フランス文学研究室
http://www.let.osaka-u.ac.jp/france/book.html
に同じ意見の人がいた。

制御系

ダーツとボウリングとビリヤードは、一番の基本は同じだ。
たとえば野球は速度がいるから鞭のような動作が必要だが(ちなみに俺は投げられない)、
これらは制御が主目的で力も速度もいらないから、直線動作を作るために円の一部を切り出す。
ビリヤードとダーツはひじを固定して、ボウリングは腕を伸ばし肩を固定する。
こうして自由度を下げておくと、離す瞬間、腕で作る円弧が十分短い距離ならばそれは線分とみなせる。
そうして、精度良く方向を決められるのだ。
みんな肩がゆれすぎ。どこのスナイパーが銃を振り回しながら撃つんだ。
これだけ頭に入れておけば素人だけなら勝負に絡める。

フォノンの実在

「ねえ、なんで量子力学は線形なのに、非線形な現象がおきうるんだろう。」
それは誰でも一度は考えることだと思うけれども、線形の方向が違わない?


「対称性が破れているとして、極小の周りで展開する直感的な意味って何なんだろう。」
この宇宙全体が金属のバルクの中にあっても不思議はないということじゃないかな。
つまり、展開しているところの摂動範囲でしか電子が存在しないとか。
ここにある物質 A があるっていうのは、十分離れた別のところにある物質 B があったとしたら、それは A と B が片方ずつだけ存在している状態をあわせたものから摂動的に理解できる、ってことじゃないだろうか。


つまり、フォノンの実在は電子のそれ程度なんだ!!

国一

国一の知人がいる時点で相当な少数派なんだからあきらめるこったな。
ただ問題点として(公務員たたきを回避するためにだと思うが)金銭ではなくて権利で払おうとしていた、というのがあると思う。たとえば、官舎がべらぼうに安い。正当な額の給料を払い、相場にあった住宅費を払わせるほうが筋が通っていると思うんだ。

理系の思想としては過激な保守派なのになぜ夢にそこまで影響をうけるの?
ユング派だからね。つまり、人というのは、あるいはもっというと私は意識している場所のほかに小人がわらわらわらわらと中にいるんだ。彼らが働いてくれるから私自身は考えられる。首をふったときに眼球が自動的に逆に動くような低位の運動から、何に注目するべきかの決定、ある事象に対する好悪のようなものを決める小人がいるのは、わりと誰でも納得できるのじゃないかな。また、小人たちの中には私のように高位のものもいる。そして、彼らが考えていることに逆らっては私はやっていけない。彼らの意見をよく聞けるのは、私が抑圧されている夢の時間だと信じているのだ。