確率論

たしかに、主観確率は頻度確率に支えられている。


ところで、たとえば将棋である局面を考えよう。そのときに、先手が3割で勝てる、といったときに、それは確かに頻度確率によって支えられているが、全く同じ局面になった過去の対局を集めてきて3割と計算しているのではなくて、ある種の同値類で局面を割って、あるいは似ている局面を集めてそれらに重み付けをして平均し、優勢劣勢を評価しているのではないだろうか。


ミクロな自由度が観測も制御もできないとしてもそれが決定論的に振舞っている限り事実上分かると思いたくなる。
決定論は、外延的にはある時点ですべての物事が分かったときにその後のことがすべて分かるということなのに、なぜか前提条件が崩れていても使いたくなるのか。