理由付け

理由付けに反旗を翻していた。ところで今日某開成卒の法学部の学生と議論して少し納得した。
物理学では理由付けは第一原理にもどれば止まる。だが、どうやら人が納得するというプロセスは不思議なもので、例えば右だけれども、 http://www.hatena.ne.jp/1087523980 好奇心をもつことは非常にいいと思うし、それは好ましいけれども、納得している理由が分からないがとにかく納得していたりする。
ところで、どうしてそこで満足したかというと、今まで考えたことのないような境地に達せられて満足したから、おなかがすいたから、といったことだろう。だが、その段階で止めるならば、初めの段階で止めるのとどこに相違があるのかが分からなかった。
物理で内部構造にもどる時には、より少ない原理できれいに説明できて、既存の理論では考えられなかった現象が予測できるだろうと思われるからだろう。だが、法学が例えば100の原理で9割の判例を説明できていたとしていた時に、原理の数を減らそうとすると、50の原理で7割の判例を説明できる理論を作っているように見られる。そこで理論を劣化させることまでして、原理を減らす意味はなんなんだろうか。
結局、何で納得したかというと、もしも王権神授説の世界ならば、法は「神から与えられた」で存在しえただろうが、現在は民主主義を標榜しているのである法の存在を多数の人に納得してもらわねばならぬ。そのために理由付けは非常に適切である。