知の欺瞞

いまでも科学用語の濫用は問題となっている。
科学用語というのは、なぜか、使っているとかっこよく見えるらしい。


ペギオさんの文章があまりにもひどいと嘆く id:m-hiyama さんの文章に以下のようなコメントをつけた。
2010-02-05

数学が大学の教養程度に分かっていれば、このように見える、という喩えはいいかもしれません。


英語で書かれたアメリカの食糧問題の論文。なぜか平安文学が重要らしい。
そして、現代仮名遣いに直しているならまだしも、なぜかお茶の飲み方が書いてあって、それが中国土産っぽい。

飲み方:ユツブに3~4ダラムの茶葉ち入れて、沸騰したお湯ちさしてがら、飲むことができます。また三分の一のお茶た残したとき、もう一回お湯たさしてくださこ。一回の分茶葉に三回お湯ちさしても、まだ飲おことができます。


レイシの紅茶は優良品質の紅茶でレイシの精華に協力して変調して、果実の香は鼻をついて、お茶の味は濃厚で入り口が細くて滑って、その外形のロープが結び目を締めるのは細くてまっすぐで、色合いの烏潤、内の質の香気の香り、味は新鮮でさわやかでよくて、スープの色の紅亮、レイシの特色があって、そして持って消化を助けて、胃腸および目が覚める脳の気持ちがゆったりする効果をきちんと整理する

ふーむ。母国語が違う人同士で会話するときには、母国語を譲られたネイティブの側に理解の責任があると思っていますが、それでも面白い。そもそも平安文学どこいった?
これは高尚な食糧問題について書かれたもので、平安文学の限界をえぐろうとしているのだぁ。


平安文学がよっぽど好きなのかもしれませんが日本語は書かない方がいいでしょうね。それと食糧問題についてはきっといいこといっているんでしょう。


これは、冗談ではあるが、本質をうまくついていると思う。


最近も、東浩紀先輩の古い論文の「ゲーデル脱構築」という語に、林さんが ( はやしのブログ ) 噛み付いていた。そして、現代思想を分かっていないのに批判しているのではないかとの反論を現代思想の愛好家からもらっていた。


もっとも東さんは、科史科哲を出ているので、これが数学的には誤りであるというのは百も承知であるという。


まず、私がいえることは、ある語が理解して使われているかの判断は、似たような語のうちのどれを選択したかに依存する、その脱構築がどれほどゲーデル的であるかを力説してもダメなのである。なぜに、他の語を選ばなかったかを説明できないと意味がない。



ゲーデル不完全性定理について手に入りやすい本の一つである吉永良正さんの本は「肝心の「不完全性」の定義を間違えているため、不完全性定理の入門書としては勧められない。」と鴨浩靖さんが書いている。 書評(数理論理学) 僕が吉永良正さんの本を読んだのは小学校の頃で、その時は、数学っぽくない本だと感じた。これは、要するに数学的に分かっている人が書いていないと感じたということだ。矛盾を自分の中でごまかすとか。読み返してないけど、数学的に学んだ後に、この書評を読んだのでなるほどと納得した。京大の数学科と哲学科を出た吉永さんでも complete 概念で混乱するくらい間違いがはびこっている。というわけで、実は「誤用であることくらい知ってんだよー」といわれても、「数学分かっている」と「数学間違っていることを知っている」のはだいぶ違うとしかいえない。


つまり、東大科史科哲でも京大数学科でも京大哲学科でもゲーデルを数学的に理解している証拠には全くならない。別に理解していない証拠にもならないが。でも、東さんについては、数学者ではないのだから、現代思想的に理解していて、数学的に誤りであると分かっていれば十分であると思う。ただ、ロジックを数学的に理解させる学科は、東大に話を限ると、情報科学科くらい? 数学科では教えないし、哲学系は数学力に欠ける。不完全性定理はその知名度の割に、数学力のある物好きしか理解していないように思える。その結果が、ブルーバックスでもムチャクチャという現状である。


で、不完全性定理の話だが、要するに能力があって興味がない人と、能力がなくて興味がある人(最もたちが悪い)のために、ノイズだらけ状態になっている。なんたって物理の大御所ペンローズが間違うくらいだ。たとえるならば、日本語という言語がマイナーであるためにムチャクチャになっている。
要するに「謝罪しる」が正しい日本語だと思っている連中が世界を席巻しているのだ。(政治色ごめん。短いよいのなかった。)フランスの大学でも日本語で教えられる授業があり、遅刻すると教官に「謝罪しる」といわれる。では、日本人はこれをみてどう思うか。まず、何よりも語感が面白い。真面目にやっている分、面白おかしい。次に、正しい日本語はこうじゃないよ、といいたくなる。生徒たちに問うと、君は教科書も読んでないのか、とくる。教官はちゃんと分かっていて正しい日本語でないが歴史的経緯で使わざるをえないと述べる。
さて、この状況で、どう考えるべきであろう。まず、言語は本来自由なものだから、どう使おうが文句はいえまい。教官にすべきことがあるとしても、学生たちに「日本では正しくないとされている」と教える程度だろう。次に不思議なのが、学生たちが日本での日本語をどのように理解しているかを話そうとしないで、「しる」の文化的意味に走ることだ。さて、最後に大きな批判がくる。「謝罪しる」を「謝罪しろ」あるいは「謝罪してください」に直せないフランスの教育システムって、一体何なの? っていうのだろう。これもまた尤もだが、フランスに対する内政干渉であるといえばそうだ。(ただ、二重国籍が結構いることも忘れずに。)
ここで不完全性定理に戻ると、ゲーデルという語の濫用は浅いレベルでも様々な反応を惹起することが分かった。「面白おかしい」ではなくて「びっくりする」人もいるし、聞き飽きていて「いらっとする」人もいるだろう。そういう感覚的な反応に文化的意義をといても、とんでもないあさってである。その一方で、現代思想(やポストモダン)が不健全な文化を持っているという批判をしている人たちに対しては、その文化的意義を述べることは有効な反論になっている。ただ、それにしてもなぜ衒学的な語を用いたのか、論理学を軽視していたのではないか、という疑問が残るのは仕方ないだろう。