ポストモダニズム
私はポストモダニズムに対して批判的な態度を取っているように思われているかもしれない。実際彼らのちょっとあさってな衒学にはとても楽しませてもらっているが、テレビの討論とかでの浅い議論を見ていると、このあたりも意味はあるなあと思う。あらゆる分野には、その分野ごとの理解の方法がある。「数学分かり」には定義定理証明が説明できる必要があるし、「物理分かり」には現象とモデルの翻訳ができる必要がある。柔道で立ち方や組み方で相手の強さがだいたい分かるように、どの程度〇〇分かっているかは、その話し方や論理で分かる。ただ、物理分かりは浅い理解である。物理分かっても分かっていないことさえある。たとえば、局所実在の否定は物理分かっているが分かっていない、たぶん誰も。そのために、(もちろん、物理分かれば物理の研究ができるほど分かっているわけではないが、)知識のコピーが容易となり、物理は発展した。これは皮肉な話だが、物理分かりを現象のための浅い理解としたことで、科学と技術の発展にこれだけ貢献したのだ。つまり、学問の目的が要求する理解の仕方を決する。しかし、物理分かった程度では、そこから何らかの哲学的な結論が引き出せない。つまり哲学分かりはもっと深い理解を必要とするはずだ。ポストモダニズムの科学用語の誤用で批判されるポイントのひとつは、おそらくここである。彼らには最低限、数学分かっていることが期待されるのに、それすらできていないことが容易に見抜ける。これは文理の問題ではなく、分析哲学分かっているのがそれなりにしっかりとした理解であるのとは対照的だ。