Sシュレディンガーの猫

Je le vois, mais je ne le crois pas.
(私は見る、しかし、信じられない)

カントール(\mathbb{R} \simeq \mathbb{R}^2を証明した)


僕だって、実験事実さえなければ信じないさ。量子論なんて。人間が考ええたどんないかれた宗教よりもずっと斬新なことを言っている。そして、その予言は恐ろしいほどの精度であうのさ。


id:nuc:20060608:p4 シュレディンガーの猫
みたいな記事を書くと、当然のように突っ込まれるわけです。

id:qqqlxl:20060610:p2 ネコ
id:a-ki_room:20060610:1149957486 シュレネコ

あと、上の括弧内の説明で分かってもらえる気もしないけど、nucの説明でも無理じゃあないかな。何か(一般人との間に)トビがありそうだ。シュレネコ

・・・え、これでわかってくれるの??
さすがに無理でしょう。
この説明では、
「なにを言いたいのかさっぱりわからん」
となると思います。ネコ

まったくだ。実にそう思う。
そこで、もう一度作戦を立てたい。

物理を学んだ人間は、「重ね合わせ」の概念を繰り返し教えこまれていて、かつそれらしい計算技術を身につけています。
そして(不幸なことに)、物理を学んだ人間は
「物理を知るにあたり、直感ほど唾棄すべき対象はない」
ということを経験的に知っています。

ええ。

そこで wikiepdia みると、
wikipedia-シュレディガーの猫
wikipedia-量子デコヒーレンス
といったようなことが書かれていて、まあ、これも分かりにくい。

それに、量子統計的には確かに量子的な性質を失うのだろうから、確かに解決しているし、もちろん壁で隔離しているので十分観測になってしまう。それは分かるが、量子論の片鱗を知ってもらおうというときに、こんな身も蓋もない解決では、と思う。猫自体を量子論的に扱って、おかしな予言をしないことくらいは示したほうがいいのじゃないかな。


コペンハーゲン解釈は、もともとミクロスケールとマクロスケールが関わったときに、マクロにはどう見えるかを論じていた。でも、じゃあ、どれくらいの大きさからミクロなんだという質問は当然でる。これの答えが、実は好きなところまでをミクロだと思っても問題なくいく、ということだ。それを突き詰めると多世界解釈になるだろう。


それでだ。結局、量子論の肝のひとつは重ね合わせの原理で、それを直感的に説明するためにはコペンハーゲン解釈

  • 「一時間前に猫が死んだ」ということが「今分かった」。
  • 「一時間前に猫が死んだ」ということが「今決まった」。

の下でなくてはいけないということを説明するしかないと思う。


そうすると、ベルの不等式を破ってみせるしかないんじゃないかな。
実在的に結果が決まっていた、とするならば、実験とはあわないことが起きると。
EPRパラドックスからベルの不等式へ(清水明教授)


ボームの解釈とかいうのがあるけども、これは置いておいていいよね。
まるで超光速で「隠れた情報」が飛び交うように見える。しかも、右から飛んだとも左から飛んだとも言える。情報が超光速で飛び交ってしまうと、因果律が壊れて、「明日の新聞が受け取れる」のだけれども、「隠れた情報」は人からは隠れてるから受け取れない、というのは気味が悪いし定式化としても綺麗でないようだ。


結局、

  1. シュレディンガーの猫量子論的にすることは非常に難しいができたとする。(06/08の夕飯でもこの話でたけども書かないつもりだった)
  2. ベル不等式の話をして、実在的な考え方とすると実験とあわないことを説明する。
  3. シュレディンガーの猫でミクロがマクロに繋がる。

あたりじゃないのかな。

こっからは僕の哲学だけれども、このへんって触っていると「実験事実からの定式化できることだけが分かって、解釈問題などない」と信じられるようになる。座りが悪いと感じるのは、あくまでも日常生活の経験とあわないからだろう。どの解釈が"正しい"のかを考えている人は多いようだけれども、別にどの解釈も正しくなんてない。あるのは、こういう状況設定にすればこうなる、ということだけ。


最後に、

俺は一般人ならば、「理解していないよりも、誤って理解しているほうが望ましい。ただし誤りを受け入れる用意がある限り。」と考えています。
(もちろん立花氏は一般人には含みません)ネコ

もちろん、俺はこれに同意しない。(ここで突然立花隆が出てきたのは、彼が「上半身が死んで下半身が生きているんだな」と考えていると信ずるに足る記述があるからです。)

「認識とは分類である。」その通り。「分類はいかなるものでも混沌にまさる。」そうは思えない。

これが、僕が一行プロフィールに掲げた言葉であった。僕は「分かっていないことを分かっている」ことが「誤っていること」よりも望ましいと思っている。日常でもこれは有用だと思うのだけれども。