ノーベル賞の構造的欠陥

ノーベル賞は、もちろん物理学会でも最も偉大な賞とみなされてはいるが、

「南部先生にノーベル賞が出せるとはノーベル賞も箔がついたなあ。」

というような発言が飛び出してしまうことからも分かるように構造的な欠陥がある。

「おお、このメンバーなら誰も文句がつけられない。つけられるとしたら遅かったことくらいだ。」

と、私は述べているが構造上仕方がない面はある。

表面的なところだけでも

この賞は生きている人にしか与えられない
代表的な例はハッブルだろう。もともと宇宙物理に与えられなかったこともありもらい損なった。Landau のように事故により緊急受賞することもなかった。
一年に3人にしか与えられない
今回もカビボが受賞からもれているのが象徴的だ。これは次のように考えたら分かりやすいだろう。鎌倉幕府設立の立役者として「源頼朝・範頼・義経」が候補にあがっていたのだが、なぜか、世界最大の帝国、モンゴル帝国を作った「チンギス カーン」との同時受賞となり源範頼は賞からもれた、というようなものだ。
評価が定まってから与えられる
このため受賞するのが枯れた分野になる。逆に理論があまりにも早い素粒子分野では受賞が遅れる。
与えられない分野がある
生物物理とか。

といったところか。

まあ、そんなもんだからノーベル賞ばっかりみてるなってことだね。