信教の自由
BluE-pInk氏の議論がおかしいと思ったので、ちょっと突っ込んでおく。少なくともこれでは引き出したいものだと思われるものの否定しか引き出せない。
http://d.hatena.ne.jp/BluE-pInk/20060723/1153574963
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ともかく私はuumin3氏ほど「宗教リベラル」(笑)ではないが、無宗教主義の押し付けはあってはならないと考えている。
信教の自由が守られるにはまず偏見を持つ自由が守られなきゃいけない。
(snip)あるエセリベラル(ヘタレサヨク)教師Bの場合。彼は中学校で歴史を教えてる。
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「いいですか。宗教は皆同じです。(snip)どれが優れていてどれが劣っているなんてないんだよ。異端も正統もない。(snip)」
これを聞いた生徒Cは腸が煮えくり返る思いを感じた。(はぁ、何でキリスト教が法の華みたいなエセ宗教と同じなんだよ。イスラム教だって間違った宗教のはずだ。)
Cの両親は実は熱心なクリスチャンであり、Cも信仰して洗礼を受けていたのだ。Cは早速両親に打ち明けた。Cの父親も憤慨した。(snip)
Cの父は保護者会でBに注意した。Bは(snip)「あのですね、宗教はみな同じなんですよ。」(あなたは偏見に犯されてるだけなんです)といった。
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まあ、当然同一視の仕方は、同値類の入れ方によって、優劣は順序の入れ方によるわけです。
えーっと、これは B が行動を改めるべきだという主張をなしたいんですよね。けれども、これではどう読んでも C の父親が迷惑な人だと主張したいという文面にしか見えません。C 一家には「偏見を持つ自由」があります。しかし、それをもって直接 B に注意をし授業内容を変えようと介入しています。もちろん、B の授業が彼に与えられた裁量の範囲内か否かの問題がありますが、裁量の範囲内でないと判断できるならば、然るべき経路で抗議すればいいのです。
あれ、引き出したい結論読み違ってる??うーん。でも、論理構造を無視すればこれでいいと思うんだが。
もしかすると、教師というものの捉え方が違うのだろうか。