全単射

今日は普段と論理という語の意味が違います。

http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20051112#p1
スピノザのエチカは数学を使う人は、冒頭部を10ページくらい眺めてみるといいと思います。反面教師として。棲み分けで、中根千枝のタテ社会の場の論理をふと思い出しました。まあそんな話は置いておいて。



法だけで善悪が決まる、と僕が考えているかといわれれば NO です。とある理由で、とりあえず、一番浅い階層でしか議論をしてきませんでした。もう一段だけ踏み込みましょう。
私は比喩を用いるときには「非常に」気をつけるようにしています。それはこのコメントを見たときに辺鄙だからニューヨークにしたのがまずかったかと思うくらいです。
それに対して、

西洋の一方的な人類学的調査でかつて見られたような光景です。現地の人の価値や文化に気を遣わず、それらは遅れたものだと決め付け、上の立場の視点からエスノセントリックに見てしまうという、今ではかなりの批判にさらされているような態度

ヒンドゥーの人に牛肉をだまして食べさせ、ムスリムに豚肉を偽って食べさせて、どうだ何ともないだろうと「啓蒙」するような、そんな比喩

これはantonianさんの例ですが、国家の法に抵触しない自由と権利として

建築基準法を満たした高層建造物を低層住宅に立てることも可能

いや、そんな一部の性質が似たものを引っ張り出してきて、そっちが悪いから元も悪いみたいな、訳の分からない議論をされればなんだって結論付けられるよなあとしか思えない。で、そう無関係な話を滔々とされても僕は困ります。「周りの山」とか「修験道の深遠さ」とか「侮辱でなく敬意」とか「男子禁制」とかもそうですが。

あ、ちなみに読めといわれた http://blog.tatsuru.com/archives/001349.php はかなりよいと思いますよ。一点、この場合解放を求めているのは「女性にも修行させろ」ではなくて「女性にも入山させろ*1」だと思うので微妙にずれているかな。あとは、「仮定」の使い方がやわだなあ、くらいですか。まあ、でも大筋納得したし。


さて、私がこの議論でもっとも気にしていたのは、uumin3さんが

これらの人には他者理解というものがおそらくできないでしょう。どんなに偉そうなことを言っても、その言葉は空しいだけのように思えます。

 何と言う無知と傲慢…

とまで言い切る点にあります。何かの法に触れているため状況が見えなくなっていると思いました(。私はそれが日本教だと思うのですが)。そのためにできるだけ同じ構造を保つように http://d.hatena.ne.jp/nuc/20051111/p3 に喩えを書いたのです。当然、同型ではありませんが、この射によって何がカーネルにつぶれ何が引き戻せないかを考えることには意義があります。*2つまり、この喩えと現実を比較すれば何か見えませんか、と言いたいのです。両方とも価値の押し付けだというところは、きちんと構造が保たれてますよね。マイノリティーがマイノリティーもという点も変わっていないと思います。これでも全く同じ反応をなさいますか? もしも全く同じならば言うことはありませんが、もしも違うならば何が違いの原因でしょうか。僕が無意識のうちに「壊してしまった構造」、その変化したところが大きな原因のはずです。
僕は、キリスト教の設定がいつの間にかカトリックに化けたことが気になることを除いて、ほぼ同じように捉えます。つまり、重要視しているところは大体この射で保存しています。

  • ある行動を認めてもらうための宣伝だというのは明らか
  • マスコミまで集めてきて大人気ない
  • この程度に100人以上集まってくるのはちょっと気味が悪いが、お互いに相手の立場を尊重できているだろう
  • 法的にも個人の自由の範疇として処理すべき
  • 衆星の天が東方に向かってπ動く*3くらいすぐ。
  • イルカ肉とか、ご都合主義もいいとこやな
  • 3人フライングしたのは、考え方が画一でないことを示していていいなあ
  • 地区代表が出てくるのは政教分離という考え方があるのかもしれないが私はそれは別の理由からあまり問題視しない

このへんはこの喩えにしても大体変わらなさそうでしょう。



これは本筋から外れますが、antonianさんの

イスラムの人がイスラム法を西洋近代の法概念の上におくのも我々には理解できないことです。だからイスラムの思考をアッラーに照らしておかしいと思うのはやはり西洋近代以降の思想教育を受けた我々の視点に過ぎない

あたり、ムスリムが本当にご都合主義的に利用されているように見えて嫌ですが。大体、イスラム教は他宗教に非常に寛容ですよ。
宗教と国家の論理が衝突したら、「日本では」国家権力をもっても弾圧しなければならないのは明白でしょう。例のオウム関連の事件では信教の自由を理由に立件しないべきだったのでしょうか。*4
宗教の論理と国家の論理とが衝突したら宗教の論理を捻じ曲げる。それができない宗教は弾圧せざるを得ない。このことの善悪を論ずれば、悪と自信を持って断言するが、この悪は必要です。それは日本の国家の論理が今まで存在したあらゆる論理の悪の中での最善だと信じているからです。これは理由になってないし理由をつける気はありませんがね。ここに「寛容」を要求されても受ける気は全くありません。

そうそう。あと、

イスラムのモスクで異教徒を入れないところ

モスク自体に基本的に礼拝の対象や聖域はないことを指摘されたので書いておきます。「市役所で外国人を入れないところ」のような感じになっていると思いますよ。(あっても恐らく聖域であることが理由ではないという意味で)



最後に悪い冗談として、ふと想起した、多分「戦争と平和」と思われる文をひいておきます。

アンドレ!お忘れにならないでね。不幸の起こる大本は神様にあるので、人間には決して罪はないということを。

文脈って大切ですね!!

*1:観光目的で?

*2:一部の人にはとても分かりやすい表現だと思うのでこの形で残します

*3:歳差運動。幼馴染萌えの新生か何かを意識してんだと思う。

*4:血縁を理由に自治体が不法な転入拒否を行なったりと地方自治体の問題ある対応も文句言いたいけれども、それはまた別の話で。