大峰山

おかげさまで大分議論がしやすくなりました。恐らくほとんどの事実関係は合意に至っているのだと思います。というよりも、どこが不一致なのかがよく分かっておりません。

僕は意図的に一番浅い階層での議論しかしていません。
どうしても理解できないのは、「周りの山は登れる」だとか「修験道は深遠」だとか「女性を避けるのは畏れ敬っているからという説がある」だとか「男子禁制の場所もある」だとか、なんでこうも無関係な話ばかりでてくるのか、ですね。3つめはの真偽は知りませんがそれ以外は正しいとして問題ないでしょう。で、それがこの話とどう繋がるかがどうも分からない。

例えば、

近代は宗教を内面に限定する

というのは私もそう思います。

教祖様専用の部屋を作っても、信徒しか入れない部屋を作っても、その部屋に法的に入場者を制限できる人に異存がなければよいでしょうし、男性信徒しか入れない部屋を作っても別に構わないと思います。ただ、別のイデオロギーと衝突して、対話といった働きかけが行なわれるかもしれません。対話への返答義務は法的にどうかなっていない限りありませんのでそこは自由です。
しかし、教祖は代々入寂の際に焼身往生*1と決まっていても、それが行なわれれば自殺幇助で周りの信徒は捕まります。焼身往生の伝統を守りたいならば、それができるよう法律を改正するように動くべきです。それがたとえ何千年の歴史を持っていてもそんなのは関係がない。それを認めれば、近代国家はすべて雲散霧消します。
要するに政府なんて必要悪で、この存在によってある程度の自由が制限されるのは当然なんですよ。
で、

立ち位置が対称的

でないというのも僕の主張と一致していますね。片方は個人の自由で、片方は全人類への束縛の要求だからです。*2
そこから本当に単純に「公道に対して往来を制限する教義なんてないのと同値」が出てきて、その事実をわざわざ確認することはよくやるよ、とは思うもののなんら問題のない行為です。
だから、

 (イダ氏たち)[女性をこの山に入れよ]>(地元の人)

これは価値の押し付けではなくて、

 (イダ氏たち)[信徒の女性をこの山に入れよ]>(地元の人)

が価値の押し付け。

たとえば、

山自体が曼荼羅となっているそういう意味を担うところで、位置づけとしては宗教施設であろう

そんな理屈を認めると、宇宙自体が大日如来だからこれは超巨大な宗教施設であると認めなくてはならなくなります。ある団体があって、その団体に自由意志で所属している人は、ルールAを守る、Bと考える、ということになっているならば、それはその団体の勝手だけれども、だから、その他の人も、{ルールAを守り、Bと考えろ}というのはめちゃくちゃです。

私が地元の人側だったら、対話を要求して、対話を拒絶されたり、それでも登るというならば登らせて、今まで登らないでいてくれてラッキーだったなあ、と思うだけですね。
いままでこうだったのだからこれからもそうだ、なんて甘えに過ぎない。

一つ目の主張は、宗教や伝統程度を、法よりも優先してはならない。
法に反して何かしたいならば法に働きかけよ。もっとも公道を女人禁制にする法は立法されても違憲判決がでるだけだと思いますがね。
というよりも、その太政官布告はいまだに効力がある気も。どっちだっけ。

二つ目の主張は、政治的主張をすることは悪でない。事実の確認として何らかの行動をとることは歓迎すべき。

三つ目は、対話の要求をしているのは地元住民や区長。別にその対話が受け入れられなかったからといって、どうということはない。
あ、この対話の拒否即悪は日本人らしいと思います。

書くのが面倒になったので、とりあえずここまで。

*1:ん、馬から落馬?

*2:これは多少ごまかしていますが