数学教育が歪んでいる

と思うがそれに対してどう思うか。ととある大学教授に聞かれて、去年の秋に書いた返事の写し。

思うに、学問というのは天才しかできないことを誰にでもできるようにするための道具だと思うのです。例えば、インドの数学者が0を見つけ、二次方程式の解法を見つけた。それで終わりだったかというとそうではなくて、それを誰でもが使えるように定式化したのですよ。それ以降、偉大な先人達のおかげで我々は問題を解くたびにひらめかなくてよくなった。その時代の天才達が真剣に考えた結果を我々は鼻歌を歌いながら使えるのです。

まず、教育する人が問題を抱えていると思います。この間、高校生の中間試験の問題をみたら、ぎょっとするような難問がそろっていました。この量で一時間弱だと、半分が限度だろうなと感じるのに、(具体的には、高等数学が絡んでいて、x^5=1の解の最小多項式を作問に利用し、(1)が判別式を要求しているので実数だと思っていたら、(2)が(1)の結果を使っているのに複素数に摩り替わっていたりしました。また、特殊な状況設定が多く、この文字設定の場合だけ解けるようになっているなど、解かされる側が混乱するだけだと強く感じました。)聞くと、先生はこれくらい全部できなければいけないと言ったということ。これを出した先生は自分の優位性を示すためにこれを作ったんじゃないかと思ったことがありました。優位性というのでしょうか、つまり、「俺のほうができる」という命題の証明のためにという意味でですね。

もうひとつは、旧来の授業形態に不満があります。授業に出て、真面目にノートを取り、分からない点があったら先生に質問し、試験に出て満点に近い点を取る。これでは少なくとも、教師の劣化コピー以上の能力はつかない。しかも、教師がそもそも劣化してたりする。勿論、本当に理解できているかが一番よく出るのは試験だから、試験を否定はしないけど、媚を売って点をもらおうとするのではなくて、学問として正しいと自信を持って、点数を奪って欲しい。たとえ、20点でも、その20点が正しいことを書いたと誰にでも言えるなら、それは先生と似たようなことをした事によって手に入れた80点よりもずっと価値がある。

理解するということを知らない人が多い。数学で答えがでたならば、たとえ大学の教授が間違っていると主張しても堂々と自分の意見を弁護できるはずです。
確かに自分で考えることは苦痛です。権威に頼っているほうがどれほど楽かは分からない。でも、そこから独立して欲しい。

曖昧な公式を憶えまくっていること。これは東大生でもいえるのですが、畳の枚数と憶えている公式の数は多ければ多いほうがいいと思っている。公式は覚えていなくてもいいけど、どうすれば作れるか(或いはどこにのってるかでもいいという人もいます)とどういうときに使えるかの二つを分かっていればいい。大学の期末試験で、試験対策プリントをとあるクラスが作って、それに対して公式はどこまで憶えたらいいと思う?と問うた人がいて、それに対して、半分憶えれば単位が来ると思う、全部憶えてれば優(80点以上)が来るんじゃないかな、というやりとりを掲示板でしていたのが衝撃的でした。どう導出されるかのほうがよほど大切じゃないでしょうか。
公式というのは、その分野でよく出てくる問題の解かれ方を纏めたものですから。