数学と物理

竹内外史の「数学から物理学へ」という本が理物の図書室にあった。ところが、これ明らかにコピー本で。


まえがきが面白かったので引用しておく。

リストがショパンとリストの音楽について尋ねられた時に次のように返事をしたといわれている。
"リストはショパンになれるが、ショパンはリストになれない。"
これは物理学者と数学者にもいえるかも知れない。"物理学者は数学者になれるが、数学者は物理学者にはなれない。"
物理学者は目的に急行でつっ走ろうとする。したがって物理学者の数学書に対する苦情はたった一つのことを知りたいのに十のことを勉強させられたという苦情である。尤も物理学者はこの事を'数学は抽象的過ぎる'と表現する。しかし必要とならば、どんな抽象的なことも物理学者にとっては物の数ではない、易々と使いこなしてしまう。事実理論物理学者が一度必要となって現代数学を使い出すとその活用度は物凄く見るだに逃げ出したくなる位である。
所で数学者が物理を勉強する時はどうであろうか? 物理数学が専門という様なスペシャリストを除いては全然手が出ないというのが一般数学者にとって普通なのではないだろうか? 余り数学者が物理の本について文句を言わないのは出来の悪い学生が質問が出来ないのと似た現象ではないだろうか?
所で数学者にとっては物理学程面白いものは少ないものである。之は全く不幸にして不公平な事情である。

話を再びショパンとリストに戻そう。ショパンは物真似の天才であったそうである。ある日リスト邸でショパンが貴婦人たちから物真似の至芸を披露してほしいと頼まれていた時に新しい来客の到着が報ぜられた。ショパンはすぐさまリストのカツラをかぶってリストになり済まして、来客に応対したが来客はリスト自身と信じて疑わなかったといわれている。

これは不思議な感じがする。たしかに実感として物理学者はそこそこ数学ができるが数学者は驚くほど物理ができないことがありうる。
トライアスロンの選手は自転車に乗れるが、競輪の選手は泳げないかもしれない。


それは、興味の対象からそうなるのかもしれない。