立花隆

rukeはどうやら何か背景としての確固とした思想があって、それに沿って話を進めようとしているがために話がどんどんずれているように感じる。

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そうではない一部の人々にとって個々の事実として挙げられている事例についての誤りの指摘は有益だろう。しかし彼らは初めから立花隆が正確な知識を提供してくれたりはしない事を了解していて、随分と有名なおじさんが駒場で講義をするというから折角だから聞いてみて、得られる事があるならば貰っておこう、というスタンスだ。彼らは立花隆の権威・地位に惹かれて講義を聴くにしても、その権威・地位に具体的実体がない事は端から理解している。だからわざわざ権威の引っぺがしなど必要がない。単にお互いの利益になる事を意図して、相互に立花隆の言説を批判(非難という意味ではなく)、批評し合えば良い。

立花隆に過度の期待を抱いてその言説に触れて、おいおいてんで駄目じゃないかよと失望したとしてそれは単に自分が勝手な期待をしていたというだけの事だ。そうではなくて、単に他の人々にこのおっさん意外と大した事ないよと伝えるとしても、それは他の人々の立花隆に対する期待を誤解している。初めから立花隆の価値に具体的な実態などない。社会的に広く認められた立花隆の名前その物が立花隆の価値だ。

この学生に対する二分法はおかしいでしょう。少なくとも例の後輩はどちらにも入っていないようであった。

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「科学技術インタープリター養成プログラム」の教員紹介を見ると分かるけれど、どう考えても問題は、こうした試みに、サイエンスのエキスパート達が積極的に関わろうとしているとは思えないということだろう。

いや、まて、とりあえず、教授助教授が両手に入りきらないほど並んでいるところを指して「サイエンスのエキスパート達が積極的に関わっていない」っていうのはないだろう。さすがに少なくともrukeよりは科学を知っていると思うぜ。


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もちろん、より良い理解を広めようとする事は常に良い事だ。基本的な事実関係に関する誤謬は、最も些細な「小事」であると同時に、最も重要な「大事」でもある。しかしnucが言っているのはもっと大それた事だ。僕には、自覚せずにサイエンスウォーズ(あえてこの言葉を使おう)に突っ込んでいこうとするドン・キホーテが見える。

つまり、nucは、間違っている事を間違っていると言っているだけで、そもそもそんなに大した事は言っていない、議論の余地のあるような話じゃないじゃないか、という無邪気な姿勢であるようだけれど、全くそうではない。

「追い出すべきだ」とまでいっているのだからそこに政治的な判断が絡んでいるのは明らかでしょうに。僕がこの件に関してここでしゃべるという行動を起こせば、当然、傷がつくのは僕であるということくらいは誰もが分かっているよね。

そして、ドンキホーテというのは非常によい喩えであると思いました。あの著作はなぜ書かれたのでしょうか。



最後に、いくつかしたいくだらない突込みから厳選してお届けします。

もちろんここで問題にしているのは自覚していないようだ、と言う事だけで、大それた企て大いに結構、より良い理解を広める事は常に良い事だ。

以上の議論は全て、一般的で形式的な議論に終始している、つまり、立花隆という個人の詳細には最大限立ち入らずに、批判の内容以前に、批判するべきであるかないかを議論してきた事に念のため注意を喚起しておく。

「大それた企て」は追い出しを指しているよね。読み違えでなければ最後の文は「批判すべきでない」だとおもうのだが。
良い事だけど、すべきでないということ?
一応、両立可能か。