観測問題

東京大学名誉教授にとんでもないのがいるがために京都大学名誉教授すらうさんくさく見える今日この頃。しかし、これは自分の頭で評価するようになったということで、非常によいことだと思います。ただ、結局、人間には限界があるからどっかで authority が何かを定めないといけないのだなというのも見えてつらいですな。

ホテル・ルワンダ関係の話を追っていたら、[ネット][ぶちゅり] id:finalvent さんとこのコメント欄よりをみつけた。
いや、観測問題なんて論文にならないくせに面白い話題があったら突っ込んでいかないわけには行かないじゃないですか。

問題としたいのは、「観測という行為そのものが観測対象に影響を及ぼす」かという、これまたどうしようにもなく甘いところであります。

以下、http://d.hatena.ne.jp/./odakin/20060307/p1 から引用すると

1.物理的状態はヒルベルト空間(大雑把にいえば正定値の内積が定義された複素ベクトル空間)のベクトルで表される。
2.観測量(observable)はヒルベルト空間上のエルミート演算子で表される。ベクトル ?Psi演算子 A に対して固有値 a を返す固有ベクトルであるとき、つまり式で書くと A?Psi=a?Psi のとき、「?Psi で表される状態」は「A で表される観測量」に対して決まった値 a を持つ。
3.ある系が ?Psi で表される状態に居るとする。実験で(例えばいくつかの観測量を測ることにより)相互に直交する ?Psi_1,?Psi_2,?ldots のどのベクトルで表される状態に系が居るかを調べる。このとき、ベクトル ?Psi_n で表される状態に居ることを見出す確率は、内積の絶対値の2乗 |(?Psi,?Psi_n)|^2 である。

ここは、まあ、誰も異存はないだろう。

もっと単純に二重スリットが干渉しなくなる現象をみれば、観測がいかにも観測対象に影響を及ぼしているかのようだ、とナイーブに思っていい気がする。
エヴェレット解釈はうちの学科の同期にも信奉者がいる。僕も結構好き。しかし、この解釈もかなり気持ちの悪いところがある。量子力学的な現象は、どう考えても日常的な経験からくる"思い込み"とは整合が取れないから、どのような解釈をとってもどうしてもどこかに気持ちの悪さがのこる。エヴェレット解釈のよいところは観測による波動関数の収縮の気持ちの悪さをエルミートな時間発展に押し付けた点で、結局それですっきりしたというならば、予言する内容が同じである以上、直感的でないところを深いところに埋めることによって仮に見えなくしてみただけであったら別にそうよいとは思えない。それがどこら辺にでてくるかというと、なんで複素数なのか、だとか、残りの空間はどこへ行ったかとか。

結局エヴェレット解釈は二つの直感的には矛盾しそうな時間発展のルールが実は矛盾しないものであったことを示している程度のことであると思いますな。

おっと、本筋から外れた。
二つの解釈が相異なると考えるのは、人が浅墓だからだということです。ちょうど、子供が「どっちの千円札を先に使うべきかを考えている」のと近いのではないでしょうかね。が、僕の解釈問題に対する答え。
もうひとつ、

量子力学では、観測という行為そのものが観測対象に影響を及ぼすことに注目し、その結果が不確定性定理として結実したが」

ことを用いて、「取材を通して取材対象も影響を被らずには済まない。」ことを述べる。これは本質的に観測がどのように影響を与えているかが違うので比喩として使うのは好ましくない。

物理屋じゃないものがうだうだ言うんじゃねーと言っているように思える

自然科学者ならばどのような立場の人間かというのは議論においてはそう影響を与えないように思える。
こういうところで衝突するのは、物理学という学問がおかしなほど「考えを捨てる」学問であるということがあるのではないだろうか。とっぴなことを考えている量に関しては、よほど他の学問よりも多いが、どれほどとっぴなことを考えても実験との整合性という(物理が単純な現象を主に扱うがため)強力な安全装置がついているからだろう。
そうすると、人が意見を言っても結構強くざっくりと切り捨てにかかるから、それが大構想だったりすると上のような感触を受けるんじゃないだろうか。