ポストモダニズム

私はポストモダニズムに対して批判的な態度を取っているように思われているかもしれない。実際彼らのちょっとあさってな衒学にはとても楽しませてもらっているが、テレビの討論とかでの浅い議論を見ていると、このあたりも意味はあるなあと思う。あらゆる分野には、その分野ごとの理解の方法がある。「数学分かり」には定義定理証明が説明できる必要があるし、「物理分かり」には現象とモデルの翻訳ができる必要がある。柔道で立ち方や組み方で相手の強さがだいたい分かるように、どの程度〇〇分かっているかは、その話し方や論理で分かる。ただ、物理分かりは浅い理解である。物理分かっても分かっていないことさえある。たとえば、局所実在の否定は物理分かっているが分かっていない、たぶん誰も。そのために、(もちろん、物理分かれば物理の研究ができるほど分かっているわけではないが、)知識のコピーが容易となり、物理は発展した。これは皮肉な話だが、物理分かりを現象のための浅い理解としたことで、科学と技術の発展にこれだけ貢献したのだ。つまり、学問の目的が要求する理解の仕方を決する。しかし、物理分かった程度では、そこから何らかの哲学的な結論が引き出せない。つまり哲学分かりはもっと深い理解を必要とするはずだ。ポストモダニズムの科学用語の誤用で批判されるポイントのひとつは、おそらくここである。彼らには最低限、数学分かっていることが期待されるのに、それすらできていないことが容易に見抜ける。これは文理の問題ではなく、分析哲学分かっているのがそれなりにしっかりとした理解であるのとは対照的だ。

知の欺瞞

いまでも科学用語の濫用は問題となっている。
科学用語というのは、なぜか、使っているとかっこよく見えるらしい。


ペギオさんの文章があまりにもひどいと嘆く id:m-hiyama さんの文章に以下のようなコメントをつけた。
2010-02-05

数学が大学の教養程度に分かっていれば、このように見える、という喩えはいいかもしれません。


英語で書かれたアメリカの食糧問題の論文。なぜか平安文学が重要らしい。
そして、現代仮名遣いに直しているならまだしも、なぜかお茶の飲み方が書いてあって、それが中国土産っぽい。

飲み方:ユツブに3~4ダラムの茶葉ち入れて、沸騰したお湯ちさしてがら、飲むことができます。また三分の一のお茶た残したとき、もう一回お湯たさしてくださこ。一回の分茶葉に三回お湯ちさしても、まだ飲おことができます。


レイシの紅茶は優良品質の紅茶でレイシの精華に協力して変調して、果実の香は鼻をついて、お茶の味は濃厚で入り口が細くて滑って、その外形のロープが結び目を締めるのは細くてまっすぐで、色合いの烏潤、内の質の香気の香り、味は新鮮でさわやかでよくて、スープの色の紅亮、レイシの特色があって、そして持って消化を助けて、胃腸および目が覚める脳の気持ちがゆったりする効果をきちんと整理する

ふーむ。母国語が違う人同士で会話するときには、母国語を譲られたネイティブの側に理解の責任があると思っていますが、それでも面白い。そもそも平安文学どこいった?
これは高尚な食糧問題について書かれたもので、平安文学の限界をえぐろうとしているのだぁ。


平安文学がよっぽど好きなのかもしれませんが日本語は書かない方がいいでしょうね。それと食糧問題についてはきっといいこといっているんでしょう。


これは、冗談ではあるが、本質をうまくついていると思う。


最近も、東浩紀先輩の古い論文の「ゲーデル脱構築」という語に、林さんが ( はやしのブログ ) 噛み付いていた。そして、現代思想を分かっていないのに批判しているのではないかとの反論を現代思想の愛好家からもらっていた。


もっとも東さんは、科史科哲を出ているので、これが数学的には誤りであるというのは百も承知であるという。


まず、私がいえることは、ある語が理解して使われているかの判断は、似たような語のうちのどれを選択したかに依存する、その脱構築がどれほどゲーデル的であるかを力説してもダメなのである。なぜに、他の語を選ばなかったかを説明できないと意味がない。



ゲーデル不完全性定理について手に入りやすい本の一つである吉永良正さんの本は「肝心の「不完全性」の定義を間違えているため、不完全性定理の入門書としては勧められない。」と鴨浩靖さんが書いている。 書評(数理論理学) 僕が吉永良正さんの本を読んだのは小学校の頃で、その時は、数学っぽくない本だと感じた。これは、要するに数学的に分かっている人が書いていないと感じたということだ。矛盾を自分の中でごまかすとか。読み返してないけど、数学的に学んだ後に、この書評を読んだのでなるほどと納得した。京大の数学科と哲学科を出た吉永さんでも complete 概念で混乱するくらい間違いがはびこっている。というわけで、実は「誤用であることくらい知ってんだよー」といわれても、「数学分かっている」と「数学間違っていることを知っている」のはだいぶ違うとしかいえない。


つまり、東大科史科哲でも京大数学科でも京大哲学科でもゲーデルを数学的に理解している証拠には全くならない。別に理解していない証拠にもならないが。でも、東さんについては、数学者ではないのだから、現代思想的に理解していて、数学的に誤りであると分かっていれば十分であると思う。ただ、ロジックを数学的に理解させる学科は、東大に話を限ると、情報科学科くらい? 数学科では教えないし、哲学系は数学力に欠ける。不完全性定理はその知名度の割に、数学力のある物好きしか理解していないように思える。その結果が、ブルーバックスでもムチャクチャという現状である。


で、不完全性定理の話だが、要するに能力があって興味がない人と、能力がなくて興味がある人(最もたちが悪い)のために、ノイズだらけ状態になっている。なんたって物理の大御所ペンローズが間違うくらいだ。たとえるならば、日本語という言語がマイナーであるためにムチャクチャになっている。
要するに「謝罪しる」が正しい日本語だと思っている連中が世界を席巻しているのだ。(政治色ごめん。短いよいのなかった。)フランスの大学でも日本語で教えられる授業があり、遅刻すると教官に「謝罪しる」といわれる。では、日本人はこれをみてどう思うか。まず、何よりも語感が面白い。真面目にやっている分、面白おかしい。次に、正しい日本語はこうじゃないよ、といいたくなる。生徒たちに問うと、君は教科書も読んでないのか、とくる。教官はちゃんと分かっていて正しい日本語でないが歴史的経緯で使わざるをえないと述べる。
さて、この状況で、どう考えるべきであろう。まず、言語は本来自由なものだから、どう使おうが文句はいえまい。教官にすべきことがあるとしても、学生たちに「日本では正しくないとされている」と教える程度だろう。次に不思議なのが、学生たちが日本での日本語をどのように理解しているかを話そうとしないで、「しる」の文化的意味に走ることだ。さて、最後に大きな批判がくる。「謝罪しる」を「謝罪しろ」あるいは「謝罪してください」に直せないフランスの教育システムって、一体何なの? っていうのだろう。これもまた尤もだが、フランスに対する内政干渉であるといえばそうだ。(ただ、二重国籍が結構いることも忘れずに。)
ここで不完全性定理に戻ると、ゲーデルという語の濫用は浅いレベルでも様々な反応を惹起することが分かった。「面白おかしい」ではなくて「びっくりする」人もいるし、聞き飽きていて「いらっとする」人もいるだろう。そういう感覚的な反応に文化的意義をといても、とんでもないあさってである。その一方で、現代思想(やポストモダン)が不健全な文化を持っているという批判をしている人たちに対しては、その文化的意義を述べることは有効な反論になっている。ただ、それにしてもなぜ衒学的な語を用いたのか、論理学を軽視していたのではないか、という疑問が残るのは仕方ないだろう。

一票の格差の許容限度

私は「一票の格差」の許容限度では「ルート2倍説」を提唱している。これは、日本の憲法学者があまりに平凡な数字しか出さないので、無理数である説もあっていいだろうと考えて提唱したものだ。
ルート2倍説の根拠は、一番人数の多い選挙区を二つに割るか、小さい選挙区を合併するかを繰り返すことによって、差をルート2倍以下にするアルゴリズムが存在することである。ルート2をとるかはともかく、アルゴリズムによって修正できるかを基準にするのは重要な視点だと思う。
ちなみに、アメリカの下院では1.4倍とほぼルート2倍が許容限度となっている。

データ解析のお供に

perl -e 'for($i=1;$i<10;$i++){print `wget http://www.yomiuri.co.jp/election/sangiin/2010/kaihyou/ye0$i.htm`;sleep 3}'
perl -e 'for($i=10;$i<48;$i++){print `wget http://www.yomiuri.co.jp/election/sangiin/2010/kaihyou/ye$i.htm`;sleep 3}'
#!/usr/bin/ruby -Ku

require 'rubygems'
require 'hpricot'
require 'nkf'
require 'kconv'

h = Hash.new

open("voters.txt"){|io|
  while l=io.gets
    a,b = l.chomp.split(/\t/)
    h[a]=b.to_i
  end
}

s = (1..47).to_a.map{|i|
  i = if i < 10 then "0" else "" end + i.to_s

  a=Hpricot(open("ye"+i+".htm"){|io|io.gets(nil).toutf8})

  name = a.search("span[@class='f120']").inner_text
  voters = h[name] || h[name.chop] || h[name.chop.chop] || h[name.chop.chop.chop]
  j=0
  r = a.search("table[@id='candidates']").map{|b|
    h1=Hash.new{|hash,key|hash[key]=0}
    [
      (b.search("tr")[1..-1].
      map{|c|
      e = c.search("td[@class=vote]")
      e.search("div").remove
      e = e.inner_text.gsub(/[^0-9]/,"").to_i
      g = c.search("td[@class=party]").inner_text.toutf8
      g.gsub!(/\(.*\)/,"")
      g.gsub!(/[\s]/,"")
      if g == "諸 派" || g == "無所属" then g+=j.to_s;j+=1 end
      next if g==""
      h1[g] += e
      [
	e,
	g
      ]
    }),
    (a0=Array.new
     h1.each{|k,v|a0.push([v,k])}
     a0.sort{|a,b|b[0]<=>a[0]})
    ]
  }[0]

  [name,voters,r]
}
s.map{|name,voters,r|
  (r[1]+
   r[1].map{|x,y|[x/2,y]}+
   r[1].map{|x,y|[x/3,y]}).
   sort{|a,b|b[0]<=>a[0]}[0..2].map{|x,y|
    print name+"\t"+
      voters.to_s+"\t"+
      y+"\n"
  }
}

=begin
print "["+s.map{|name,voters,r|
  "(\"" + name + "\", " + voters.to_s + ",["+r.map{|a,b|"("+a.to_s+",\""+b+"\""+")"}.join(",")+"])"
}.join(",")+"]"
=end

正しい選挙結果の見方

今回の参議院選では、121の議席が改選されました。73名が選挙区、48名が比例区です。参院選の選挙区は一票の格差衆院選より更に大きく、今回も鳥取県民は神奈川県民の5倍の権利を与えられました。

http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20100713

一目瞭然ですよね。今回の選挙で自民党がなぜゾンビのように復活してきたのか。権利富裕層の多く住む地方の“一人区”(定員一名のみの選挙区)で、今回、自民党は29戦21勝と圧勝しました。“一人が何票も持っている田舎を根こそぎ抑えたこと”、これが自民党勝利の大きな、そして唯一の理由です。

実は、この結果は肝心なことを忘れている。一人区と複数人区では、やっぱり価値が違うのだ。


では、一票の格差も地区ごとの人数の差もなかったときの選挙結果を見積もるにはどうしたらいいだろう。

選挙区についてこう考える。すべての都道府県には人口に比例した議席が与えられたとする。そして選挙区はすべて所属する都道府県から無作為抽出された一人区だけでできているとする。これならば、都道府県について対等な立場になっている。

つまり、するべきことは都道府県ごとの地域第一党を求めて、その都道府県の有権者数を数え上げることだ。そうすると以下のようになる。

都道府県名 その都道府県の有権者 地域第一党
北海道 4604561 民 主
青森県 1159140 自 民
岩手県 1109235 民 主
宮城県 1908319 民 主
秋田県 927048 自 民
山形県 966232 自 民
福島県 1659432 民 主
茨城県 2425880 民 主
栃木県 1630549 自 民
群馬県 1627796 自 民
埼玉県 5814689 民 主
千葉県 5045486 民 主
東京都 10620508 民 主
神奈川県 7294561 民 主
新潟県 1968798 民 主
富山県 903328 自 民
石川県 944297 自 民
福井県 653503 自 民
山梨県 702067 民 主
長野県 1758294 民 主
岐阜県 1688224 民 主
静岡県 3076711 民 主
愛知県 5829921 民 主
三重県 1503886 民 主
滋賀県 1106114 民 主
京都府 2098897 民 主
大阪府 7089288 民 主
兵庫県 4542923 民 主
奈良県 1154020 民 主
和歌山県 848458 自 民
鳥取県 485912 自 民
島根県 593860 自 民
岡山県 1577416 民 主
広島県 2326269 民 主
山口県 1208999 自 民
徳島県 658828 自 民
香川県 829698 自 民
愛媛県 1197915 自 民
高知県 640959 民 主
福岡県 4094102 自 民
佐賀県 688271 自 民
長崎県 1177396 自 民
熊本県 1488495 自 民
大分県 990648 民 主
宮崎県 933881 自 民
鹿児島県 1400358 自 民
沖縄県 1073963 自 民

これを集計すると、結果は

政党名 獲得有権者 この制度での議席 今回の議席 選挙制度による差
自民党 25492029 18 39 -21
民主党 78537106 55 28 17
みんなの党 0 0 3 -3
公明党 0 0 3 -3

となり、自民党の18議席に対して、民主党の55議席と圧勝になる。

ちなみに、比例代表は以下の通り。

党名 比例
民主 16
自民 12
みんな 7
公明 6
共産 3
社民 2
改革 1
たち 1

最後に、得票数第一党である都道府県を見比べておこう。

政党名 都道府県数 都道府県名 有権者
自民党 22 青森県秋田県山形県、栃木県、群馬県富山県、石川県、福井県和歌山県鳥取県島根県山口県徳島県香川県愛媛県、福岡県、佐賀県長崎県熊本県、宮崎県、鹿児島県、沖縄県 25492029
民主党 25 北海道、岩手県宮城県福島県茨城県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、新潟県山梨県、長野県、岐阜県静岡県、愛知県、三重県滋賀県京都府大阪府兵庫県奈良県岡山県広島県高知県大分県 78537106

民主党が大都市圏で強いことがよくわかる。そして、自民党は勝った22都道府県のうち、21都道府県が一人区だ。また、比例区の得票数にして、3割程度しか変わらないにも関わらず、議席数にすると3倍ほどの差にまでふくれあがる、一人区制の特徴がよく表れているよね。


7/15追記。
この話には続きがあって、二人区とみなすと、大阪で公明が3議席分とり、自民34議席、民主36議席となる。(ドント方式)

三人区だと、みんなの党と公明が3議席とり、自民が30議席、民主が37議席、という結果となる。


ようするに、選挙制度が政治をしているのであって、国民は政治に参加なんてしていないんですよー。

副作用

Haskell に副作用はあるのか。
http://d.hatena.ne.jp/kazu-yamamoto/20100607/1275872735

twitter で @ainsophyao さんがこう言っていました。

副作用については、 a=f(x);b=f(x);g(a); というプログラムと a=f(x);b=f(x);g(b); というプログラムが異なるものになりうるか、を定義とすればいいと思う。

私もこの定義はよいと思います。

そしてその続きとして、

そして、Haskell では異なる値になることを ST を使って示します。本当は IO を使いたかったのですが、Haskell 自体では runIO main と書けないので、議論の対象に実行器を含んでいるのか曖昧になり議論が噛み合ないことが多かったのでやめておきます。

念のため書きますが、僕は実行器を含めて議論しています。実行しなくていいのなら、たとえば C の printf("Hello\n") だって、出力はしないので、副作用はないですからね。

とあった。私が思うことは以下。

完全に出遅れましたが、sumii さんと同じで do 記法は糖衣構文でしかない、ということです。

参照透過性という意味での副作用でしたら、参照透過性は「式」の持つ性質なので、文と式の区別をしなくてはいけません。do 記法は全部合わせて一つの式あるいはその一部ですから、そのなかで順序を変えても参照透過性がないことを示しません。
式の中で、順序を変えたら結果が変わるというのは、非可換な演算子が存在する、といっているだけです。


C 言語の printf は、エラーがでると負の数を返すという意味で参照透過性がありません。


参照透過性の問題ではなく、I/O に対しての話ならば、C 言語は高級アセンブリですので、printf は内部にバッファーがあって、そこの状態まで含めて副作用といいたいのでしょう。これはどこまでをその言語とするか、という話だと思います。


エラー処理をしないような C の printf があり他の関数との兼ね合いがなければこれも参照透過性がある、と言っていいと思います。


そのプログラムあるいは関数を繰り返し実行するとメモリーの状態が変化することは起きていますが、それは当然なので副作用とわざわざ呼ぶ理由はどこにもないような。あるいは入出力機能があることを副作用とわざわざ呼ぶのもあまり意味がないと思いませんか。



それと、もしも、IO は命令であるというならば、たとえば、IO (IO a) はどのように解釈するんでしょうか。命令なのか命令書なのかという議論ならば、命令型言語の考え方に影響されて命令と考えるよりは、命令書とするほうがはるかに分かりやすいと思いますよ。

韓国はなぜ発展したか

http://d.hatena.ne.jp/qqqlxl/20090823/p2

日本は朝鮮戦争でした。

戦後戦争を利用せずに途上国から先進国へプロモーションした国はどこでしょう。

韓国かなぁ。

それに対して私。

韓国にもベトナム戦争の恩恵があったと聞いたことがあるけれども、どこまで本当かは分らん。

正直、この辺のネット情報は、n次文献の再生産が多すぎて、日本語情報は全く当てにならない。
"Miracle on the Han River" "Vietnam War" を結びつける英語の文献はざっと探したところ全くない。

連投失礼。
上の投稿は、単純に奇跡と戦争を結びつけている文献が見つからないといっているだけで、発展に対する戦争の寄与がない何らかの証拠があるといっているわけではない。



1992年1月「韓国経済へのベトナム戦争の影響――韓国における「NIEs的発展」の基礎形成」三田学会雑誌 (佐野孝治)
http://www.econ.fukushima-u.ac.jp/xoops/modules/news/article.php?storyid=78
「韓国の経済発展とベトナム戦争」(朴 根好)
査読なさそうだけども、両方大学にあるようだから一ヶ月以内に見てくる。


http://www.soc.hit-u.ac.jp/research/thesis/doctor/?choice=summary&thesisID=144
博論が通る程度のテーマではあるらしいから発展と戦争は関係ありそう。
けれども、漢江の奇跡をベトナム戦争と絡めるのは用語の使い方を間違えているのかな。

いや、もっと僕のレベルの低い話でして、戦後の韓国史はさっぱりなので、発展時期に戦争があったからといって恩恵があった(あるいは利用した)といえるのか、がちょいと分らなかった。
戦争により疲弊したというのはよくあるわけじゃない。


で、調べだしたら英語の文献だと、"Miracle on the Han River" は政治的資本的な側面についてでベトナム戦争についての言及がない感じだった。


あれ、と思いながらもうちょっと探したら、経済発展とベトナム戦争については資料がでてくる。


ではなぜ、奇跡と戦争の関係では出てこないんだとなると、「単に高度経済成長の事実を指す」のが怪しいのではないか、という可能性が高いと考えた。



http://en.wikipedia.org/wiki/Wirtschaftswunder
ドイツ復興も朝鮮特需か。

財政投融資とか聞くとぞくぞくするね。


まず、「韓国経済へのベトナム戦争の影響」と「韓国の経済発展とベトナム戦争」は博士課程の学生が書いた論文と博士論文であった。


「韓国経済へのベトナム戦争の影響」(三田学会雑誌)の要約


はじめにの後半

ベトナム戦争の時期は、第1次および第2次経済開発5カ年計画の時期と対応しているためか、渡辺利夫氏を中心に韓国の経済発展の理由として、「輸入代替政 策」から「輸出志向政策」へといち早く転換したことを強調する論者が多く、ベトナム戦争の影響はほとんど無視されている。従来、このベトナム戦争の経済的 影響に関しては文献が少なく、しかも古い文献がほとんどである。特に最近の韓国経済論には「ベトナム戦争」の文字すらないものが多い。
しかし、韓国の経済発展が、単に政策だけの問題ではなく、ベトナム戦争という特殊な歴史的状況の下で可能になったことに注意するべきである。日韓国交回復 と並んでベトナム戦争との関連を抜きにして、この時期を分析することはできないし、70年代以降の経済成長も理解できない。韓国におけるいわゆる 「Nies 的発展」の基礎を形成し、工業化を軌道に乗せたもの、それがこのベトナム戦争に伴う、特需と経済援助および輸出の持続的拡大なのである。
もちろん、韓国の経済成長が成長によるものだと主張して、意図的に「明るい」韓国像に泥を塗るつもりはまったくない。ただ、客観的にベトナム戦争の影響を 分析し位置付けることによってのみ、本来の韓国像を見つけることができるのだと考える。「ベトナム戦争と韓国」を問うことは、言うまでもなく「朝鮮戦争と 日本」、「ベトナム戦争と日本」を自らに問うことであり、さらには他民族を支配してきた自らの歴史を見つめ直すことなのである。

1950年代における李承晩政権下の韓国経済は、主にアメリカの援助と国家による農民収奪に依存した「援助依存型経済」と特徴づけられている。

50年代末に行き詰まり。

  • 国内市場の狭隘性と援助物資配定を巡る生産拡大競争のために過剰生産に
  • ドル防衛のため、対韓援助が削減され借款に

端的な現れが、不正蓄財問題と農漁村高利債問題


1961年に朴正煕による軍事クーデター

  • 農漁村高利債整理令
  • 不正蓄財処理要綱
  • 不正蓄財処理法
  • 不正蓄財還収のための会社設立臨時特例法

によって不正蓄財を工業化投資に。


第1次経済開発5カ年計画(1962年?)
課題は

  • 国民経済の構造的不均衡の是正
  • 基幹産業の拡充と社会間接資本の充足
  • 国際収支の改善

国内政策

外資導入および輸出促進

結果
3年目に下方修正
失敗理由

  • 資金調達の失敗、外資不足
    • 国債発行によるインフレーション
    • 国際的な信用不足
  • 外資不足により資本財・中間材の輸入を制限するはめに


ベトナム派兵の動機

  • 表向きは「反共アジアの結束を強化し、友邦諸国の恩恵に報いる」
  • アメリカとしては「ベトナム戦争の国際化を図る」
  • 朴政権はアメリカに忠実で韓国軍の統帥権アメリカ軍が直接掌握していた
    • アジア最大の兵力
    • 安上がり
    • 派兵反対の政治的勢力が相対的に弱い
  • 在韓米軍のベトナムへの転用は米韓安保体制を大幅に弱化させ、米国の対韓軍事公約の信頼性を著しく低下させるだけでなく、朝鮮半島における戦争抑止構造 に重大な影響を及ぼすものと考えられた。
  • 軍事的経済的アメリカへの依存
  • アメリカの信任と支援による朴政権の政治的利益(クーデターによって政権を奪取したので大統領選・国会議員選挙に大きな影響)
  • 軍事力の増強と安全保障体制の強化を図る
  • 経済的利益


特需の増大

  • 国連軍および在ベトナム米軍による韓国からの物資・用役などの購入
  • 南ベトナムに在留している韓国人による本国への送金

韓国経済における特需の比重

  • 国民総生産に対する特需の比率は67年に5.3%

輸出総額に対する特需の比率は70.6%(67年)


経済援助

  • アメリカの援助と借款
  • 対日請求権資金

ちゃんと計算していないけれども、ぱっとみ、だいたい5?10%が請求権で2割強が日本からの借款。


技術導入および資本財の輸入による設備投資の拡大

  • 設備投資の拡大
  • 技術導入および資本財の輸入
  • 輸入支援策の整備


輸出の持続的拡大



ベトナム派兵後の好循環
"特需収入の増大、援助・外資導入、輸出の拡大"が"外貨獲得の増大"をうみ、それが"輸入能力を拡大"させ、"経済援助"や"工業化促進政策"とあい まって、"資本財・中間材の輸入の増大"へとつながり、"外国技術の導入"もあり"設備投資の拡大"が行われ、"生産拡大生産性向上"し、"輸出支援政 策"と"低賃金労働力"の助けで"輸出競争力の強化"がおき、それは"ベトナム戦争による世界的景気拡大"のもとで"輸出の拡大"をもたらす、という好循 環ができた。


その後、特需は70年以降はそれほど大きな比重を占めていない。外貨獲得源は輸出や外資導入に譲っていった。

  • 呼び水的役割を果たした
  • 韓国経済力の国際的信用を得るきっかけ
  • 財閥の基礎の形成
  • 建設業者の海外進出
  • 国内建設軍納がインフラストラクチュア投資となり産業基盤の強化に
  • 用役軍納が失業問題の改善とともに技術や経験などの蓄積に役立ち、70年代の重化学工業化に寄与


問題点

  • 生産材生産部門の未発達
  • 外資導入の審査が十分でないことにより銀行管理下におかれる不実企業の続出(政府や銀行が借款返済を保証していた)
  • 所得格差が拡大する傾向にあり、国内消費需要拡大に限界


要約終了



もう一冊の方の「韓国の経済発展とベトナム戦争」を読んで、だいたい状況がわかった。

これまで、韓国の高度経済成長の要因について、さまざまな角度から検討されてきた。そして、snip よく取り上げられてきたのが、ガーシェンクロン・モデルを基礎にした「後発性利益」という見解である。日本の著名な開発経済学渡辺利夫氏は、韓国の高度経済成長要因として、韓国には、後発性利益を内部化するための社会的能力、すなわち、政府の政策転換能力、起業家の経営能力などが存在していることをあげている。つまり、氏の見解は、内的要因を強調するものであり、これが韓国の経済発展の重要な一面を説明していることは事実である。内的要因を強調した点において、渡辺氏の見解が果たした役割はきわめて高いといってよかろう。snip いくつかの問題点がないとは言い切れない。snip 六〇年代前半は低成長であったのに、なぜ六〇年代後半は高度経済成長を成し遂げたのかが、必ずしも解明されていない。snip 政策にとって有利な国際経済環境、すなわり世界市場の急速な拡大によって輸出市場を保障されたこと、ならびに、先進国からの豊富な外国資本と技術の導入が可能であったことなどが欠落している。
また、高度経済成長要因として、snip 儒教精神の影響をあげる見解もある。その根拠として、つぎの二つがよく指摘されている。(一)教育水準の高さとそれがもたらす労働力の良質性、(二)勤勉、その代表的指標として論じられる長時間労働が、それである。
snip
このように、教育水準が高く、労働時間が長いのは、韓国だけでなく、ASEAN 地域においても見られるものであり、その意味で経済発展と教育および儒教文化とを直結するというのは問題があると思われる。
また、韓国の高度経済成長が、米国と日本との関係を抜きにしては考えられないとして、国際経済環境が有利に作用したことを重視する見解がある。加工貿易型構造、すなわち「成長のトライアングル」がよくあげられている。これについては、多くの論者の一致した見解であるといってよかろう。
渡辺利夫氏と同様「圧縮経済」の見解をもつ趙淳氏によると、豊富な労働力の存在、教育水準の高さ、政府の経済発展促進政策だけでは、韓国の「圧縮成長」を説明することはできず、それ以上に国際経済環境が韓国に有利に作用したことを指摘するとともに、加工貿易型構造を高度経済成長の要因としてあげている。しかし、時期的になぜ六〇年代後半以降になってそれが突如として登場してきたのか、なぜそのような構造になったかが、必ずしも解明されていない。
本書では、これらの諸要因を排除するというわけではなく、むしろ、様々な要因が重なって高度経済成長が成し遂げられたと思われるので、それを補おうとするのが目的である。したがって、六〇年代の経済発展が、ベトナム戦争という特殊な歴史状況のもとで可能になったというところに目をむけて分析してみたい。韓国のベトナム参戦が、ベトナム特需とその見返りを呼び、これがいわば呼び水となって、韓国の工業化を促進するのに寄与した役割を重視するのである。

経済発展へのベトナム戦争の影響に触れている文献は、「戦後日本資本主義と「東アジア経済圏」」小林英夫と「韓国経済へのベトナム戦争の影響」佐野孝治があげられる。


この本の内容は

そこで、本書では、ベトナム特需の実態把握に絞り込むのはもちろんのこと、ベトナム経済活動収益、ベトナム参戦の見返りなどが韓国の工業化、とくに、輸出の拡大、外資と技術導入、強力な政府の台頭、新興財閥の形成などに、いかなる影響を及ぼしたかを考察してみたい。

こんなかんじ。



だから、妙な言い方だけれども、博士論文をとれるくらい真っ当なテーマではあるらしいが、だが現在でも博士論文のテーマになる程度に枯れていないことから韓国経済発展の原因の主眼ではないようだ。

30+200ページくらいだからそんなに大変じゃなかった。
式のない本だしね。



おそらく、戦争では極めてよい条件がそろうことになるのだろうね。
そして、外貨獲得手段としても極めて良質である、ともいえそうだ。
これは思いつきだけれども、

  • 長期的に取引が継続されることが保証されて、長期的な成長戦略が容易に立てられるようになること
  • 取引の信頼を副次的に得られること

というのは同じ額の外貨獲得でも他の手段では得がたいだろう。
ようは経営者の大人の事情とか情報とかに相当する部分。
たとえば、100兆円が大きな額だといっても1億人で割れば100万円にしかならんわけで、それを元手に何かしろといわれても難しいだろうと。


乗数効果を示す前提として失業者がある程度いるモデルを採るのと同様に、戦争遂行のときには途上部分を発展させて使うというのが最も効率的だろうから、

  • 一時的に先進国の内側とみなされて技術導入が進む

というのも重要だろう。



ただ、代替の利く外的要因のひとつでありクリティカルなものではないというのは確かなようだね。


ベトナム戦争は65年からで、70年以降はそれほど大きな比重を占めていない、というのだから、わずか5年あれば呼び水として十分というのも驚きかなあ。



それと、対日請求権も日米安保の一環として行われたものに、今後の請求破棄を約束させるために名前をつけただけに思える。戦後20年経っていたのと米国の 援助がちょうど減っているわけだから。このあたりも興味深いね。



冷戦当時の空気を理解するには、どうしても相当量の本を読まねばならないようだね。