無法者

山形浩生*1メディアリテラシーの練習問題;室井尚の奇妙な反・嫌煙運動プロパガンダ追記: 文明の病理とは

 というと、そんなことはない、かつてキチガイは自由であり一般の人々と親しく共存していたのである、文明こそがそこに恣意的な正気/狂気の区分を持ち込み、キチガイは迫害弾圧されるようになったのである、これぞ近代の奸計なのだ! てなことを多くの人は言う。これはフーコーの名著『狂気の歴史』(邦訳田村訳, 新潮社, 1975) の悪しき影響で、これにより中世 (というのは 15世紀)以前にはキチガイは自由に人々と共存して阿呆船で楽しく暮らしていたが、その後文明が進むとかれらは精神病院にぶちこまれ流刑地に監禁されて自由を奪われ、恣意的な分割が管理の口実として体制に利用されたのである、といった認識が広まった。

 確かに狂気という概念が近代の管理ツールとして使われてきた、というのには一面の真実はあるだろうし、それを指摘したフーコーはえらい(必要以上に晦渋なのはなんとかしてほしいけど)。でもフーコーは、中世以前のキチガイたちが野放しだったと言ってるだけで、迫害されたり虐殺されなかったりしなかった、なんて不用意な妄想は口走ってない。フーコーは老獪で慎重だから、他人の誤解をわざわざなおしてあげたりはしなかったけど。集団的・制度的に対処されてなかっただけで、個別にはどんどん迫害虐殺されていただろう。そもそも殺人も頻繁で、寿命も短かったしみんな貧困だったから、だれもいちいちキチガイなんかの運命を気にしなかったというだけのこと。ちょっとでもリソースが不足すれば、年寄りは姥捨て山に放置され、変な連中はすぐに処分され、山の向こうのむかつく連中は隙あらば収奪された。かれのもう一つの研究分野である犯罪や監獄のことを考えてみてよ。近代的な監獄や犯罪概念ができるまで、犯罪者は大手をふって何も処罰されずに歩いてたわけ? まさか。泥棒や殺人者(らしき人物)がつかまったら、手続き無視でリンチにあったというだけの話だ。というのも、当時の狂人は別に人間として認められていたから野放しになってたんじゃない。人間とは思われず、家畜に毛が生えた程度のものと思われていたから、野良犬がほっとかれるのと同じ意味でほっとかれただけなのだ。人間扱いしようと思えばこそ(そして狂気を直すことができるという希望があればこそ)病院に入れて治療しようとしたりしたのだ。これはフーコーが完全にまちがっているところだ。

これを読んで思い出したのだが、ゲーテの Faust では、酔っ払いが Faust に向かって「無法者だ」と叫ぶ場面が出てくる。
これは中世法で無法者はこれを殺すことは何の罪でもなかった(むしろ推奨された)ことに由来しているという。

*1:ちょっと迷ったけれども呼び捨てに足る人だと思った