事後予言

あれは、中学校に上がる少し前のことだったか。なにぶん、だいぶ前のことなのではっきりとは思いだせない。あやふやな記憶をたどっているから、どうも、あとから創作されたり改竄されたりしているかもしれないと思うところもある。仮にこの話を相互作用と変容とでも名付けておこう。

相互作用と変容

ある、嵐の晩に、カンテラをもって階段を上がるという幻を見た。風によって炎が揺らめき今にも消えそうだった。階段を上がってみるとそこに大きな老人が立っていた。今、思い返すとそう大きくなかったのかもしれない。しかし、僕は小さかったからか非常に大きく思えた。古びた帽子を深くかぶっていたために顔はよく見えなかった。ただ、そして彼のもつ雰囲気に覚えがあった。老人は、君と会うのはなんどめだろうか、といったことを聞いてきたと記憶している。そのとき、たしか、会ったことはない、会ったと思っているだけだ、と答えた気がする。その時、ふっと、熱を出すと、ある夢によくうなされた、その夢を思い出した。なんと表現すればいいのだろうか。非常に抽象的で表現しづらい夢だった。点が走り、平行線が交わらないことを、直線が平面を埋め尽くせないことを、とでも言ったらいいだろうか、純粋な恐怖と苦痛とともに感じた。何度もその夢をみているうちに、僕はこういう結論を下した。あれは無限の目であろうと。無限の目を覗き込んだからあれほどの恐怖を感じたのであろうと。そして、そのとき少しでも無限を手懐けたいと思った。いつしか、高熱を出すことが少なくなるにつれて、その夢もあまり見なくなり忘れていった。しかし、「会ったと思っているだけだ」の一言でその恐怖と苦痛がゆっくりと甦ってきた。
ゆっくりと時空間が歪みはじめた気がした。あちらに過去があり、向こうに未来がある。そしてここで現在として交わっている。もしも、どちらにも無限にのびているならば、あちらの先はこちらにつながり、どうしてまたここに戻ってこないといえようか。その時に、またまったく同じように繰り返したいといえるような人生を送ってきただろうか。
老人は、ふらふらと倒れこみそうな僕を見て、こう言った。「一瞬のために全体を引き換えにしても良いと思えるような一瞬があれば、というのが、欲しがっている解答かな。」さまざまな大きさの円が周りを充填している。どの場所も通るが、それでいてどの円も交わらない。そのようなものが一瞬感じられると、突然周りの濃度の薄まったように急激に、とでも表現すればいいだろうか、また元のように世界は見える。「何を考えているかというのは、手に取るようにわかるものだよ。何を見ているか分かっていない者の考えていることは。」頭が少しでもはっきりするように姿勢を正しながら言い返した。「少しはわかっているつもりです。たとえば、おじいさんは実はこの火を吹き消そうとしている外の嵐であるとか。」知りもしないことを言わされた、と僕は思った。
老人は答えた。「別に消そうとしているわけではない。風もかえって燃え上がらせることもあるのだよ。」彼はゆっくりと手をカンテラに近づけた。火が身をよじるかのように逃げ、ガラスの覆いなどないかのように炎が踊り、びくっとして一歩身を引くと、炎の一部が床に落ちると突然燃え上がった。「このようにね。」するとどこからか声がした。「さぁ。消えてしまうことのほうがありえたと思いますよ。」声は炎からでているようだった。老人は驚いたかのようだった。「おや、人の言葉を話すのか。」「私が歌う炎であることくらいご存知でしょう。ご冗談を。あなたは、善でもなく悪でもないのだから、この家のことはすべてをご存知だ。私たちは似ていない。あなたを会得することはできませんから。」
僕は少し考えて、この家のことで知らないことがあれば、善であるかまたは悪である、というのは奇妙だと思った。そして、結局この家全体が、あるものの善悪を決めていて、たとえ、あらゆる部分の性質がわかっても、結局全体はみえないのじゃないだろうか。一部分をいじると、全体が変わってくる。ふっと、こんがらがったグラフとそこのなかの特異な一点が見えた。全体は部分の寄せ集めじゃないのか。このようなことを考えていると、もう飛ぶための翼がないのだなと感じた。
同じことを思ったらしく「なぜ自分の羽をもぐようなことをするのか。」と炎は聞いてきた。
「羽蟻は、一度飛べばその翅を落とします。時がくれば、また飛び立とうとするつもりです。そしてその時に羽がなかったら、それはそれでいい。まだ何かに一生を捧げる決意はないから。」老人は少し笑い、「それはどうだろう」といった。
その後ははっきりとは覚えてないが、老人も炎もどこかに行ってしまったことに気がついた。老人に手を伸ばして触れようとしたら灰のようになって、灰は風に流されて炎に呑まれた。炎は、突然膨らむと消えた。そのような記憶がぼんやりとある。
気がつくと、階段の最後の段をまさに上ろうとしていた。
玄関の外に誰かいるような気がして、急いで階段を駆け下り、ドアを開けようとした。ドアは崩れ落ちた。そうそう、これは玄関ではないんだ、だってこの家からは出られないのだから、と納得して、誰かを探すために、ドアの跡に現れた穴を降りることにした。梯子を降りると、大きな扉があった。なかなかに重い扉であったが、それでもそれを開けてみた。扉はゆっくりと開き、冷たく硬いといったらいいだろうか、強い拒絶を感じさせる部屋の空気が流れ出てくる。少し待つと、徐々に体温で部屋の空気が溶け、自分の感覚となじんでゆき、意識されない空気へと戻る。いってみれば、少し高めに調律されているピアノが、聞いていると違和感を失う感じ。そうなってから一歩踏み込み部屋に入った。広くはないが、部屋は多くのもので散らかっている。なんとなく論理的からもっとも遠いところだろうと思った。
何かがここに隠れているかと思って見るが何もいなかった。
カンテラの火がつぶやいた。「そりゃそうさ。わざわざここを探したのは勇気があったからではなくて、さっきまでいた二階を探すだけの勇気がなかったからなのだよ。」気がつかぬうちにそのような判断を下していたことに少し怖くなった。
どさっという音がしたので急いで二階へ上がってみると開け放たれた窓から黒い影が嵐のなかへ消えていくのが見えた。その時に、おそらくあの影は多くのものにまとわりつき、そして、それを捕まえるのには何年もかかるのだろうと感じた。