オッカムのかみそり

「近似」と「モデル化」について - quine10の日記 のあたりから。
「科学は自然の近似」: Interdisciplinary

鉄の中のケイ素の個数がある真の値を持つことになっていますが、これは物理学としては疑問なのではないでしょうか。個数演算子の固有状態をとっている保証はありませんし、固体といえども蒸気圧は有限の値を持ちますからグランドカノニカルと思えますよね。


もちろん、これは真の値をこういうモデルでは持たないといっているだけであり、また化学者が普段使うモデルでは古典的なので真の値があることは正しいと思います。それに実験誤差からすればこんなのは話にならないほど小さいというのもそのとおりでしょう。


ここの話がモデル適用の際の実験誤差ということは承知しているので、余計な話ではあるのですが、先方の文句との間の断絶を埋めるにはこういう議論もしておかなくてはいけないように思います。


光速度は定義値であるし、光速度の存在をアプリオリに認めるのか」という向こう側につけたコメントも、近似の話をするときに「モデル」を「自然」と置き換えて話を進めていないかという懸念から発したものです。

共役なペアとして、位置と運動量の方が一般的に親しみがあるというのはそのとおりだと思います。また、マクロスケールなら古典的と差がないようにふるまうというのもまったくもっておっしゃる通りです。


量子的描像では個数も「充分な精度で決める」ことができるというのもそうでしょう。そして塊が量子的に扱えるかには疑問は残るかもしれません。


私が問いたかったのは、技術開発者さんの「塊を構成している元素は数は分からなくても有限個であるということは証明可能」という発言は古典的描像の素朴実在論によるものではないか、ということです。化学では古典的な描像で素朴に実在しているように表現しても問題が起きることはあまりないのでしょうが、実在がどうこうという話もでているので念のために「真の値」がどのような意味であるかを補足する必要があると感じたのです。なので個数演算子を選びました。これは、たとえば、「ばね定数、屈折率や抵抗値は「真値は存在する」が技術上近似値しか求まらない。」に対しては、弾性限界、光の強度や温度や電流に依存しているなど精度を上げればより細かい構造がみえる(あるいは見えるだろう)ことを(実在の話をする場合には)断るべきと思うのと同様です。すくなくとも、科学の与える豊かな世界観を表現しきれていないので、もったいないのではないでしょうか。

古典論的にはこうで、量子論的にはこうだ、という描像を並べた上で、それもマイナーな差異であってもっと奥には何通りもの描像があるはずだ、という深みが出ないと思うんだよね。


オッカムのかみそりは会話における原則だといえないだろうか。
因果律や斉一性の原理は認めるが、しかし、実在論を信じない立場からは実際にどうかということは意味を持たないわけで、彼らにとってみれば「政治的に正しい御伽噺」を常にしなくてはいけないようにならないための方策に過ぎないのではないだろうか。

それと,科学者が実在論を信じていることを指摘するのは,
10÷4=2あまり2 という計算を見て,
分数もしらねーのかよ,と突っ込むようなことだ.