ポパー

ポパーの「量子論と物理学の分裂」を散歩がてら寄った本屋でちらりと見たが、少なくともエヴェレット解釈の批判は的外れっぽかった。

まあ、記憶から起こしているから勘違いしていたらすまないけれども、エヴェレット解釈だと、世界が分裂していくが、シュレディンガー方程式の形は時間発展に対して可逆なので、その向きで見ると世界は融合していく、よって矛盾らしい。
いやはや、おめでたいなあ、というか、なぜに矛盾したと思ったのだろう。そりゃもちろん、一つの純粋な現在 N から見れば、過去 P_\lambda も未来 F_\lambda もたくさんある。その過去から一つ P_\lambda_0 取り出してきて、それを時間発展させれば、現在はたくさん N_\lambda になる。N はその中のひとつに過ぎない。じゃあ、そのたくさんの過去 P_\lambda を全部集めて発展させればどうなるかというと、うまい具合に複素係数がかかってきて、それ N 以外の現在がうまい具合に相殺して全部消えて一つだけ N 残るの!!!


うーむ、複素数体すげえ。 http://d.hatena.ne.jp/nuc/20050822/p2

回路論と量子力学における複素数を用いる必要性は似たようなものだと思います。

と述べたけれども、そんなことない気がしてきたなあ。


そうして考えていたら、時間がなくなった。つまり、状態というものが散らばっていて、それぞれがそれらは複素数係数の度合いでお互いに影響しあう、そんな世界像。


ところで、例えば、コンピュータシミュレーションのなかに知的な生物がいるとして、これの計算速度を徐々に下げていく。中の生物はそれが下がったところで気がつかない。では0にしたら? もちろん気がつかない。永久的にそうしたら?
が、ここで s/he が「突如、死のようなもの」にあうとは思えない。単純な「時間発展」といった綺麗な構造はこの宇宙のどこか外に「存在」していて s/he はその上を「時間発展」し続けるのではないだろうか。
シミュレートしていたものは、あくまでもその影で。

子猫の間引き

http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20060822#p1 子猫を殺すことから知ったのですが、日経新聞に載った「某作家が子猫を殺しているという記事」をネタに騒いでいるらしい。

その記事読みましたけれども、今回は特に不愉快に感じるものではなかったですね。いや、あの欄はたまに本当にこれどうなのよと言いたくなる文章が載るのだけれども。「これ贔屓目に見ても書いたの中学生だろう」とかね。

コメントをしようと書き始めたのだけれども、長くなったのでやっぱりここに書くことにした。

そのうちのひとつは椋鳩十氏の作品だったかと思うのですが、飼えなくなった愛犬を自ら銃殺・毒殺する「美談」があって、子供心にそのようなものなのかと複雑に感じたことがある気がします。これは安楽死ではなくて、軍隊に行かねばならず他人に預けることになったが、それではやっていけないことを確信したから殺す、みたいなものでした。読んだのは十年以上のことなので記憶が定かではないのですが、それが椋鳩十ならば、つまり、少なくとも70年前の常識として、飼い主がペットの生死も含めて管理するのは「オトナとしての最低限の行動」で、それもできない人に動物を飼う資格がない、というものであったはずです。


江戸時代あたりまえのように人でも間引いていたのを、明治以降厳しく取り締まるようになったために、その後人口過剰が問題なった、ということもいくつかの示唆を与えてくれるでしょう。
去勢よりも間引きのほうが悪いとするのは、日本人に関していえば長くともここ150年の感覚であるのです。まあ、でも間引きも去勢もしないという選択をしなくてよかった。自然界だと猫の生存率はそう高くないのに人が飼うと途端にこれが跳ね上がるから二年もしないうちに破滅するんですよね。猫は年四回発情で生後一年もしないうちに成獣になりますから、あとは簡単な鼠算ならぬ猫算ですなあ。そうなるとストレスで母猫が食い殺したりするそうですからねえ。

現代においてはあまり猫の母体に影響を与えない(発情がなくならない)去勢法もあるらしいですが、彼女の主張として妊娠・出産も楽しみだということだから、まあ、どちらもまだ経験していない僕としては15へぇくらいで。

あと、

動物の保護及び管理に関する法律で昭和48年というと2633年ですから丁度法整備が行なわれた時期ですね。ということは牝猫に対する去勢技術は既に一般的だったのでしょう。

まとめると「猫の間引きは少なくとも30年前には極自然に行なわれていた伝統的で普遍的なありふれた行為、実は強烈に拒絶するほうが『少数派』」ってことでしょうかね。