動物実験

現代日本に生きている以上、ものすごい数の実験動物のおかげで我々は今の生活を享受できているのではないのですか。

アザラシのところでも書きましたが大正時代では一歳までに死ぬ子供は 1/6 ですよ。これが、現在 0.4%未満。
この差はどっからくるんでしょうか。主に栄養と医療でしょう?

現在の人間の技術では、生物の体内のことなどほとんど分かっていなくてシミュレーションできませんから、当然、最後は動物実験ですよ。
たとえば、世界初の全身麻酔手術を行なった華岡青洲は、麻酔薬の開発のために、たくさんの犬猫を実験で失明させたり殺したりして、最後には自分の妻も失明させてしまうのです。それだけの犠牲あって完成したのですよ。
僕にはなぜ動物実験にそこまで強く反対できるか分からない。そりゃ、動物といえども無益に殺されているのは許しがたいでしょう。でも、医者にかかったことくらいあるでしょう。歯医者に行けば麻酔を打ってもらったことだってあるでしょう。
文句があるのだったら、子供が一歳になるたびに、さいころをふって 1の目が出たら殺せばいい。彼らはずうずうしくもものすごい数の動物を犠牲にして生きようとしているのだから。小学校のクラスメイトを思い浮かべてください。そのうち6人は1歳になるまでに死んでいたはずです。

栄養の問題だって、自然科学がこれほどまでに発達しているから、飢え死にすることなくやっていけるのです。
江戸時代の天明の大飢饉では300万人といわれる人口のうち30万人以上が餓死・病死しています。死者は特に東北地方に集中していたといわれていますから、場所によっては半数以上が飢饉によって死んだのではないでしょうか。
これだって、農薬・肥料・機械、何が安全で何が危険かを動物を使ってちょっとずつ調べていった結果、安定した農業ができるようになったのです。その成果を否定したいならば、たまには餓死にチャレンジされるとよいかもしれません。


これだけの利益を享受しておきながら、許せないとか、身勝手極まりないのではないですか。
研究室で虐待といいますけれども、わざわざお金を使って動物に苦痛を与えたがっているというのはどういうサディストですか。そりゃ結果的に動物に苦痛を与える行為もあるでしょう。もちろん、無用な苦痛を与える行為は、監視して取り締まっていかなければいけないし、するべきでしょう。
でも、動物の死が食肉にするよりもずっと多くの利益を人類に対してあるいは自分に対して生んでいることを認識して暮らすことは、死んだ動物達へのせめてもの礼儀だと思うのですよね。

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(ヨハネ福 8:7)