親族の基本構造から

ただし人間共同体というものは当該集団の世界観次第できわめて多様な定義を受ける。じつに多くの未開民族が、彼らの言葉で「人間」しか意味せぬ名前によってみずからを名指すが、それによって彼らは、集団の境界の外に出ると、人間性のなにか本質的な属性が失われると彼らに映ることを教えている。
ゴビノーの仮説もある種のもっともらしさをまとう。それによれば、小人、巨人、怪物、など架空の生き物が次から次へと民間伝承に登場するのは、想像力の豊かさのせいではなく、むしろ仲間と一緒の姿形でよそ者を思い描くことができないためである。ブラジルには、はじめてアメリカに連れてこられた黒人奴隷たちを「地上のサル」と思っていた民族もいる。唯一知っていた樹上動物への連想が働いたのである。メラネシアのいくつかの民族にあなたがたは何者かとはじめて尋ねてみたところ、彼らはこう答えた。「人間である、と。悪鬼でも幽霊でもなく、肉と骨でできた人間である、と彼らは言いたかったのであるが、しかしそれは、彼らが自分たちのもとにやってきた白人を人間ではなく、まさに幽霊か悪鬼、海の妖精だと思っていたことの証拠である」。ニューヘブリデス諸島に上陸したヨーロッパ人は最初、幽霊と受け取られ、幽霊という名前をもらった。着ている服は幽霊の皮、連れてきたネコは幽霊のネズミと呼ばれた。レヴィ=ブリュルもやはり示唆に富む別の話を採取した。たとえば、馬は人を背中に乗せているからその人の母親だと受け取られ、逆に伝道師は輝くような髭を蓄えているからライオンと呼ばれた、など。

いや、面白いなと。