血液型診断

あるお医者さんと「科学を学んだものは血液型診断の話聞いていると、なんか腹が立ってつらいよね〜」という合意に至る。「相関があるかもしれない」の「かもしれない」レベルが真っ当な検証すらせずに事実に摩り替わっているその naive さがたまらない。
僕の血液型への言及
医者はむしろ検証足りなくても嬉々として相関とみなす傾向があると感じていたが真っ当な方はそうでもないのじゃなあ。む。真っ当ならばそうでないのは論理的に当然か。

もちろん腹が立つところは科学の外の理由があるのだから必然ではないが。考えたことだけで価値があるというのはやはりなあ。

いま、思い出した。赤子を谷に投げていたと思っていたのはモーロックだ。そして、出典は告白でなくて失楽園だ。そして谷ではなくて火らしい。まあ、下に口がくっつくだけね。

一緒にいた医者の卵は「血液型診断は宗教だと思って寛容であれ」と述べたが、それこそが間違ってる。モーロックへの子供の sacrifice は宗教的に寛容であれ、ですませるものなのかね。
やはり、どうも個性の重視と naiveな相対主義が元凶だというのには賛同するな。
このへんは教育ゆえで、自由がむしろ無干渉主義とでもいうべきものに摩り替わっているのか。浅見を抱くことが自由ならば、浅見だということを指摘する自由があるという浅見もあってよいのではないかな。
誰がなんと言おうと、全順序ではなかろうが半順序は考えのクラスに入っているのだ。

関係ないけど、随想 吉祥寺の森から「カルトと非カルトとの境界線とは?」が面白い。う〜ん。内容の真偽は知らん。

前々から気になっていたのだけれども、ここは走り書きをおく場所のつもりだから可読性は低いですよ。突っ込まれたら説明しますが。