大峯山

http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20051121#p3
日本教はどうでもよいのです。でも「通常なら説明はいらないだろうと思える次元で、根っこのところで食い違いがある」ならば、それを宗教と呼んでもよいのではないでしょうか。宗教と違うというならば、それを合併した、その拡大された宗教を宗教バーとでも呼べるものだと思います。
比喩は重要でないというのはあまり同意できないのです。少なくとも「より怒る材料」となっていたようですから、そこは少し解(ほぐ)してみる必要を感じました。それと、対照材料を作るのがとても難しい領域ですから、何が本質的であったかを追うには比喩というのは一つの方策だと思います。そういえば、ホフスタッターのゲーデルエッシャー・バッハだったか、メタマジックゲームだったか、また別の著作かもしれませんが、そこに未訳の文がありました。それは、男女差別問題を人種差別に置き換えてうまい具合に嫌悪感を起こさせるようになっていました。もっとも文化的なバックグラウンドの分からない日本人には読めないということでそこは訳さないことで原著者と一致したとのことで原文は見ていないので具体的な中身は知らないのですが。

一番大きい対立点は、そちらは「イダ氏と性同一性障害者が許されざることをした。特に協定に加わらなかった3人。」で、僕のとしては、「問題のあることをした人はいない。」で、食い違っているのだというのでいいのですよね。で、存在証明をする側でないので、どうしても基本的には分析という名の邪推をすることしかできないのです。そうすると例えば、性同一性障害は認められていく社会的な風潮であるが、それでも自分が愛着を持っている価値共同体には関わらないで欲しいものだと思い、性同一性障害が正統的に日本の宗教を侵そうとした生理的嫌悪感から排除しようとしていた、とかは一つですよね。これが正しいならば、少なくともここに無自覚でなければ僕は特に言うことはありません。それも一つの立場でしょうし、尊重します。が、やはりそうなるとお互いに法的に論じるしかなくなると思うのですよね。少なくとも法は変えていけるものですし。ここまで仮定法。なので僕は基本的には待ち側なんです。

そして、今回の記事でなんとなく分かった気になっていた問題点がさらに見えなくなりました。「より」押し付け度が高いから、というのは、「何か問題がおきた、どちらかが悪いはずだ、それは押し付け度が高いほう」ということでしょうか。「二つ目のどちらかが悪いはずだ」というのが納得できないのです。

僕からすると、村の人に比べて「より」イダ氏の押しつけ度が高いというのは、ある側面ではそうでしょう、とは思います。とりあえず、イダ氏の行動は村民や修験者の行動に依存しているのに対して、逆はあまり依存していません。でも極端な話、無計画殺人犯と警察もそうですよね。ということはもっと複雑なはずですよね。そして、行動の制限という意味では、女人禁制は全ての人類に対して要求をしていますから、より押し付け度が高いと思うのです。そしてそれがルール外の人には無効であることを確認するのは「大人気なくても」それ以上ではないですよね。たとえば、鬼ごっこをしていて、友達が通ったのでタッチして「鬼は抜けられない」といって引き込むとか。


ダーウィニズムではないですが、広まらない価値は絶滅しますね。