もう一回モヒカン族

http://ruke.blog5.fc2.com/blog-entry-155.html#more

不幸なことに人はちょっと複雑な思考をするためにも言語という記号の助けを借りざるを得ない。そのために思考できる領域を広げるために、新しい記号という楔を打つのだ。
yankee doodle がもともと英軍の独立軍揶揄の言葉であったとしても、それがそれ以降どうつかわれるかは分からない。

http://mohican.g.hatena.ne.jp/bbs/2/440
おそらく、僕の議論がぴんとはずれになっているといわれるのも、モヒカン族がいかに使われているかを理解しきっていないのと、多少ずれたことを前提として論じているからだろうからそこをゆっくりと解いていけば話がみえそうだ。

とりあえず、はじめに一言だけ。僕からは LotR の字幕運動家達はモヒカン族に分類される、以上。

さて、話を続けよう。「エリートは優れた人に決まっている」のだから「モヒカン族は技術原理主義者に決まっている」。しかし、技術原理主義者という人を私は知らない。だいたい、「真のモヒカン族」にあったことがないというならば、「真の何」に会ったことがあるのか。

僕は、「真のモヒカン族」に会った事がない。

というのは強弁すればプロパガンダになりえても、それ以上にはなりえない。
つまり、これは「真のモヒカン族」という何か判定を明確に持っており、知っているあらゆる人をその判定に通したときに誰も通らないとなるが、最近でてきたこれらの語は概念がきっちり定義されていない。実際に定義の方法も、このような特徴を持つ人々と、いくつかの相関はありそうでも必然的な関係はないようなものを散りばめたものになっている。そこの判定は私には未だ曖昧に感じられる。

そもそも、日本は不思議なことに原理主義者が存在し得ない国らしい。日本ではある幅で誰もが折り合いをつけるべきだということを信条としている。この幅がすべての人に共通であると考えるので、この幅の外にいるものに対しては実に冷たい。折り合いをつけられる世界に原理主義は存在し得ない。日本は宗教的に寛容である国と思われているかもしれないが、実は幅の外の異文化の存在すらも認めない文化圏である。ただ、その不寛容さが「どの神を信じるか」において発現していないだけである。

処女懐胎キリスト教信仰の核のひとつにもかかわらず、日本は万世一系の世界でそれを受け入れられないから、ほとんど触れられようとしない。なにかの喩え話であることにしてしまい、それ以外の考え方がありうるなど思いもよらないようだ。喩え話とするのは自由主義神学以降の新しい考え方である。これは幅の外に出会った時のひとつの特徴的な反応だと思う。

   事実
 しかし紛紛たる事実の知識は常に民衆の愛するものである。彼等の最も知りたいのは愛とは何かと言うことではない。クリストは私生児かどうかと言うことである。*1

私が、モヒカン族という語にあったときに、そちら側に頭が働いた。つまり、日本の土着の文化はできるだけ波風を立てないように意思疎通をしようとする。
だが、これは異文化圏と触れたことがないことからくる傲慢さ故でしょう。たとえば、人ならば誰でも「空気が読める」と思っている向きがあるが、それに加え実は、空気が読めなければ人でないと考えているのだ。これは異なる文化圏と触れる可能性がでてくれば必然的に空気の読めない"人"の存在を否が応にも認めざるを得なくなり、それとともに日本のムラ社会は崩壊すると見ている。ムラ社会モヒカン族を消し去れる、と考えているところも実は土着文化の非寛容性のためであろう。
ムラ人とモヒカン族の衝突は、異文化衝突の前哨戦であり、この後には他国との衝突が待ち構えているように見える。英語を話さないから関係ないということではない。日本語はアメリカでは既に英語・スペイン語に次ぐ三つ目に力を持った言語だという。私のネット経験もこれを裏打ちしていて、10代から20代前半に限れば、アニメの輸出の影響か簡単な日本語を知っている人は多く、学生俗語は無理でも標準語が流暢に話せる人はちらほらいた。"日本語"という言語が日本人だけのものであった時代が終わりに近づいている。
衝突したときに、日本のムラ社会には致命的な弱点がある。それは異文化が存在していないときだけ回るシステムである点だ。ムラ社会の存続のためには、対外的に無理に断絶し引きこもるか、ムラ社会が形を変えるしかないだろう。



で、大体 Ruke のいうモヒカン族の概念が理解できた。確かに

上述の懸念を踏まえた上で、「モヒカン族」という言葉は良くできている

と思う。



で、まあ、こっからは、Rukeの話を自然科学に対して適応すると近い話が出てくるのかもしれない。「水からの伝言」をみているとトンデモウォッチは実に楽しい。

http://blogs.yahoo.co.jp/yunyun0290/9208731.html
http://blog.livedoor.jp/madamho/archives/30324480.html
http://blogs.yahoo.co.jp/mizumiyu3359/9017650.html
http://catch-cow.cocolog-nifty.com/dougenzaka/2005/08/post_229a.html
http://www.11e.jp/asin/4901200062/

いやはや、僕なんかは将来食うのに困ったときに、こういうの書けば売れるんだな、って思うととっても安心できていいです。そのころには、同期たちも大した肩書きを持った人になっていて、人脈はたっぷりあるだろうし。わくわくですね。ここ見ている方には、既に研究者や大学の先生の方も何人かいらっしゃるみたいだからそのときには是非ご協力を(ヤメレ)。

上のサイトでは、

科学的根拠が無いのは今の時点のことであって、将来的にこの分野が研究されれば、当たり前のこととして認知されるのではないでしょうか。

といっているけれども、とりあえず、どれくらいばかげたことをいっているかというと、以下のようになる。

水をコップに用意して、右のつぼから白い粉をいれて、ありがとう、という声をかけると甘くなります。左のつぼから白い粉を入れて、ばかやろうというと、しょっぱくなります。ですから、ありがとうといいましょう。

どのような結晶が作られるかは、戦前の日本で調べられております。空気中の湿度と温度で決まるから、それは水に砂糖と塩を入れるとどうなるか、くらい明らかになっているのです。

Rukeの言う

「科学で解明できていない事はまだまだたくさんあるはずだ」のような謂いは、それが正に科学を推進する最大の動機であるはずなのに、しばしば、科学的な探究を放棄する事の正当化として持ち出される。

がばりばりにおきてますよね。科学というのは分からないことがあったら仮説を立てて検証してみて、認めるか捨て去るかを決めるはずなのに、科学が積み上げてきたものがあまりにも大きくなりすぎた所以か、こういうことがおきる。

ひとつ思うのは、科学を立場だと考えているために、科学者の立場ならば言葉の力が認められたら困るだろうというのではないかな。二項対立の演出は容易に状況把握ができたと思わせられる。前にあげた「超能力少女ナターシャの実験に立ち会ったゾの巻」がちょうど同じ構図になっていると思う。
自然科学は再現性のあるものならば扱えるのだから、新しい現象が見つかったらそれは自然科学が扱えて楽しいではないか。(そういえば、スターウォーズの世界ではジェダイのフォースは物理現象だとされているんだっけ?)



それはそうと、ここからはトンデモじゃないのだが、コエンザイムQ10って大丈夫なんでしょうか。
以前、昼食時に話題になったのだが、あれって不思議だよね。つまり、脂溶性補酵素でしょう? たぶん、胃腸で分解される、ピリオド、みたいなことはなさそうだからいいけど。それでも体内合成可能でミトコンドリアの活性に影響って、パラサイトイブじゃないけれどもミトコンドリアの活性制御のところでしょう。活性制御を薬物でいじりにかかって大丈夫なのか? そういえば活性酸素がどうこうという話もあったな。脂溶性だから濃度のコントロール間違えると楽しいことになりそうだし。大丈夫だとしても、摂取の上限があるはずなのだが。
しかし、自分で臨床やりたくないけども投与結果を知りたい物質だというのはたしか。志願兵の方々に敬礼。
これはどうなるのかな。人にコエンザイムQ10を投与したときにどうなるかを知りたい、というのは好奇心で、自分に投与したくないというのは自己保存本能? 勝手なものだねえ。