NHKの「日本の、これから」
会社経営者の方が中国進出するうえでどうしたかを話していた。概略を記憶を頼りにまとめると、
進出前から日本軍の蛮行は話に聞いていた。現地で改めて、社員になる人の母の話を聞き、{<例いくつか>をあげ}日本軍の暴虐行為は確かにあったと確信した。嘘だという人もいるが、私はそうは思えない。嘘だというならば、直接その社員の母に向かって言ってみろ。
そこで、私は社員や家族を呼んで集めた。私は、こう頭を擦り付けて以下のように述べた。先の大戦で私のの父祖は中国へきて残虐行為を行なった、そのことは大変すまないと思っています。しかし、子孫である私はここにきて、その被害者の子孫と共に仕事をしたいと思っている。私にここで仕事をさせてください。もしも父祖の行為故にそぐわないというならば帰ります。
私は不覚にも*1、ああ、と感動した。そして少ししてから、イザヤ・ベンダサン「日本教について」を思い出した。
イザヤ・ベンダサンの「日本教について」より。初版は1975年だからだいぶ古い。私の親世代ではひとつのブームとなったらしい。
私は、日本人はまた中国問題で大きな失敗をするのではないかと思っております。日本には現在「日本は戦争責任を認め、中国に謝罪せよ」という強い意見があります。一見、まことに当然かつ正しい意見に見えますが、それらの意見を仔細に調べてみますと、この意見の背後にはまさにこの「狸*2の論理」が見えてくるのです。すなわち「私の責任です、といって謝罪することによって責任が免除され、中国と『二人称の関係』に入りうる」という考え方が前提に立っているとしか思えないのです。
従って、子供が物心がつきますとすぐ、「私の責任=責任解除」という教育が、ほとんど無意識のうちに徹底的に行なわれます。日本人のうち、子供のときに「(私の責任です)ゴメンナサイと言ってあやまりなさい。そうすれば(そのことの責任は追及せず、無条件で)ユルシテあげます」と言われなかった者は一人もおらず、いわばこの考え方は、「子供のとき尻から叩き込まれている」のです。もし子供が、その行為に対して、むしろそれに相当する処罰を受けたほうが良いと思って「ゴメンナサイ」とも「スミマセン」とも言わなければ、この「ゴメンナサイ」とも「スミマセン」とも言わないことに対して、「強情なやつだ、ゴメンナサイといえ」といって、ゴメンナサイというまで処罰がつづけられることはありますが、この処罰はあくまでも「ゴメンナサイ」と言わないことに対してであって、そのもとになった行為に対して処罰が下されているのではないのです。従って、欧米の家庭で当然のように行なわれている不当な行為に対する「体罰」は日本では皆無に近く、これが子供を甘やかすと誤解されますが、これは誤りで処罰の対象が違うだけです。
以下は私の要約。
「二人称の世界」で表現されているものは、「私」がなくて「お前」と「お前のお前」のみが存在している二人だけの系を指す。相手の立場だけを考えているという純粋な状態に入ることによって、相手に「対話する」責任が生じ、信頼関係からすべてが解決される。
小学校で小事件があり、教師が追求したところ、生徒が認めて謝った、すると教師がいきなり殴打し生徒は死亡。教師が異常なのは確かだが、「自分の責任だと言った人間を処罰するとは何事だ」と関係者が口にした。
ドイツの日本人留学生が大学の図書館で本のあるページ切り取り、窃盗で起訴され懲役刑となった。このような愚かなドイツ人はいない。では、日本で同じ状況であったらどうだろうか。司書がこの窃盗をみつけたとしても、学生が謝罪し、司書が許し警察沙汰にはならないだろう。だが、司書には許す権利がない。ドイツ人の司書は犯人を隠匿し責務を全うしないことこそ罪深いので法に任せた。
日本人はキリスト教を慈悲の宗教というが、それはあくまでも日本人司書としての"慈悲"を想定しており、西欧キリスト教とは異なる日本教キリスト派である。
つまり、この会社経営者の方は、純粋状態になって謝罪することにより「お前」と「お前のお前」の関係になり、禊(みそぎ)が終了する、というシナリオを描きそれを実行したのではないだろうか。それが受け入れられたのかはよく分からない。
*1:知らず知らずに、の意なんだけど変か?
*2:夏目漱石 坊ちゃん の狸を指す。『「学校の職員や生徒に過失のあるのは、みんな自分の寡徳(かとく)の致すところで、何か事件がある度に、自分はよくこれで校長が勤まるとひそかに慚愧(ざんき)の念に堪(た)えんが、不幸にして今回もまたかかる騒動を引き起したのは、深く諸君に向って謝罪しなければならん。