カント

カントはニュートン力学に影響を受けたと言う。では、一般相対性理論は哲学的にどう修正を加えるか。これは極めて面白い問題だ。しかし、物理学の発展により現代ではメタ概念から多くの概念が統一的に理解されている。その統一性に抵触しない差異でなければ本質的でないのが明らかで全く説得力がない。

文字

戦後に日本は当用漢字字体を、中国は簡体字を定めたので
それまでの旧漢字(繁体字とほぼ同じ)が分かりにくくなった。

当用漢字には下のような批判があった。
「虫」は本来ヘビという意味でキと読むが、「蟲」と書くのは面倒なので、「虫」と略字を使っていたのが採用された。
「戻」は、本来「戸」に「犬」が飛び込むことを表す会意文字であるが、「犬」の点を打つ手間を省くために「大」になってしまった。「器」も同様。
「為」は「爲」だが、これを草書体にしてさらに楷書にしたもので、歴史上全く存在していない字である。
書き換え範囲は当用漢字に限られた。「假」が「仮」になるならば、「瑕」は「王反」でいいじゃないか。「變」「戀」が「変」「恋」なのに「鸞」は変えないのか。
「己」「已」「巳」混ぜるなよ。「辨」「辯」「瓣」を「弁」にまとめるなよ。
なるほど、このように現在の新漢字がアドホックである、という批判は正しい。

本来、文字というのは、送り手と受け手とが合意をしていればよいものだ。通用するなら、早稲田式で書いても神代文字で書いてもいい。だから、文字は複雑化していく一方。康煕字典大漢和辞典の漢字は5万字ほどだ。それに対して、国家が整理した文字や国語を用意することはそれなりに意義がある。過去との連続性を絶つことで、古い文献の価値を下げたという人もいるが、結局、草書体、変体仮名、連綿体や上代仮名と読めなくては結局過去の文献は読めない。で、まあ、僕は代わりに字体の差異とされる範囲を拡大すべきじゃないかと思ってる。現代日本のとめはねや一点一画を定める漢字教育は異常だと思う。明治以前ならば、字体の差異として許容されていたであろう書き換えが現代では許されなくなったため、(字体の差異の拡大は変な表現だ。許容される字形・字体の範囲を広げる、だな。)却って無意味な書き分けを要求するようになった。

異体字

異体字文字コードを割り当てることは反対である。フォントのようにマークアップすればよろしい。考えてみたまえ。東アジアのマイナー言語のことを考えて世界のプログラマがプログラムを書くと思うのか? そうすると起きることは異体字の概念がデファクトスタンダードによって押しつぶされるだけだ。

電話調査の標準偏差

なあなあ。NHK の電話調査1000人くらいにしか調査していないから、支持率が2割前後の自民党はそもそも統計誤差すら1%以上あるのだが。2回の比較だから3%増えても偶然の範囲だぜ? このへんのリテラシーは色々問題だなあ。

これも因果関係

http://www.lovepiececlub.com/kitahara/2009/06/post-173.html

性に少しでもからむ女が被害者になる事件で女が言われることは、あまりにも似通っている。そのことだけが、事件が変わっても、変わらない。加害者が違っても、変わらない。加害者の社会的地位や年収や通う大学や家族構成によって加害者の報道のされ方が変わっても、被害者の女性は変わらない。
「あなたも、わかっていたんでしょう」

たとえ「わかって」行っていたとして、何が悪いというのだろう。
セックスが好きで、コンパで会った男の子とセックスしてもいいな、むしろそうなりたいな、という思いでコンパに行く女の子の気持ちそのものが罰せられることなんて、どういう思想だと思う。早稲田の男の子と知り合いたいな、恋愛できたらきっと楽しいだろうな、そういう思いでコンパに行く女の子を責めるって、どういう正義だと不思議に思う。
そんな女の子の「期待」と、実際に力づくで強姦される「現実」を結ぶ線なんて、一切、一切、断じてない。ない、ない、ない。ないのに。

これは女にいくらかの帰責性が認められるという考え全体を攻撃しているのです。通り魔に刺されて被害者を責める人は少ないでしょう。ただ、場所が新宿だと責める人がいるかも知れない。ここを相対化しようとしているのでしょう。まあ、もうちょっと言っておくと、人が因果関係を見出す時には特異なところを捉える。その点として、歌舞伎町であるというところに注目するか、殺害者の性癖に注目するかは、受け手次第だ。もっというと知識、そして経験。因果関係なんて妄想ですから。そういう考え方が進化上それなりに役に立ったにしてもね。



追記:犯罪機会論に対しては、因果関係と帰責性は違うっていう話をちらりとして、それと因果関係はやっぱり特異的なことを掴むので、対象に対する知識という相対的なもので決まる、という議論をするのだろうなあ。

物理と因果関係

物理学者の因果関係観「えーっ、光円錐の内部だったら当然に因果関係あるんじゃないのー?」

因果関係は物理には不要な概念な気がする。

どのように物理と因果関係の話に至ったか。因果関係と相関関係が違うというのは、日本の司法は自民党に支配されていた(ラムザイヤー)、という論文へのツッコミで使った。では、物理学においては? 因果関係と先後関係は、物理では違う意味になるし、あまり使われない気がする。

物理に用いられる因果関係として、先進波をあげるのは確かにそれなりに尤もだが、タキオン解やホワイトホールも切るのと同様に観測されていないので切っている、というので十分ではないか。

わざと漠然とした表現をすれば、先後関係は全微分で、因果関係は偏微分だ、という感じ。