これも因果関係

http://www.lovepiececlub.com/kitahara/2009/06/post-173.html

性に少しでもからむ女が被害者になる事件で女が言われることは、あまりにも似通っている。そのことだけが、事件が変わっても、変わらない。加害者が違っても、変わらない。加害者の社会的地位や年収や通う大学や家族構成によって加害者の報道のされ方が変わっても、被害者の女性は変わらない。
「あなたも、わかっていたんでしょう」

たとえ「わかって」行っていたとして、何が悪いというのだろう。
セックスが好きで、コンパで会った男の子とセックスしてもいいな、むしろそうなりたいな、という思いでコンパに行く女の子の気持ちそのものが罰せられることなんて、どういう思想だと思う。早稲田の男の子と知り合いたいな、恋愛できたらきっと楽しいだろうな、そういう思いでコンパに行く女の子を責めるって、どういう正義だと不思議に思う。
そんな女の子の「期待」と、実際に力づくで強姦される「現実」を結ぶ線なんて、一切、一切、断じてない。ない、ない、ない。ないのに。

これは女にいくらかの帰責性が認められるという考え全体を攻撃しているのです。通り魔に刺されて被害者を責める人は少ないでしょう。ただ、場所が新宿だと責める人がいるかも知れない。ここを相対化しようとしているのでしょう。まあ、もうちょっと言っておくと、人が因果関係を見出す時には特異なところを捉える。その点として、歌舞伎町であるというところに注目するか、殺害者の性癖に注目するかは、受け手次第だ。もっというと知識、そして経験。因果関係なんて妄想ですから。そういう考え方が進化上それなりに役に立ったにしてもね。



追記:犯罪機会論に対しては、因果関係と帰責性は違うっていう話をちらりとして、それと因果関係はやっぱり特異的なことを掴むので、対象に対する知識という相対的なもので決まる、という議論をするのだろうなあ。