分別

僕に学校で人を分別する傾向は確かにありますね。
しかし、僕の世界はとてつもなく狭いからこれはとっても合理的なんですよ。例えば、ある授業で班分けされれば、知らない人と一学期間一緒にうまくやっていけないといけませんよね。手始めに敵対的でない関係を築こうとすると、一番楽なのが共通の知人を見つけることです。「クラスどこ?」「云々」「僕はカンヌンだよ。云々ということは〜〜君知ってる?」「あ〜、うちの副シケ(副試験対策委員長)。」「やっぱりそうか!高校で一緒だったんだ。最近、彼、大学来てないって聞くけどどうなの?」相手も有名な高校ならば、ここで相手の高校の人を何人かあげてみます。
このため、僕の教養のときの人を覚えるときの分類は、出身高校、出身塾、教養のクラス、でした。

しかし、学歴と能力に関係があるとはもっとも思っていない側だと思いますよ。
{とある例}
それに勉強ができることに価値を見出すのもどうなんでしょうね。

そして、僕が教養学部のはじめの頃はある種の類型をもってました。もともとは、「東大に入ったことをすごい」と考えている人がいることにむかむかしていたのが理由でしたが。
それを意識した自分への反省が、
http://d.hatena.ne.jp/nuc/20050415/p1
http://d.hatena.ne.jp/nuc/20050422/p1
http://d.hatena.ne.jp/nuc/20050428/p2
このへんですかね。

isbn:4788505282小熊英二単一民族神話の起源』より

そうした制度的秩序がない世界に住むことは、人間に多大な負担がかかる。だが異文化接触というものは、まさに「おはよう」と声をかけて侮蔑とうけとられるかもしれない不安を、人間に予測させるものなのだ。そうした不安に耐え切らなくなったとき、人間は異文化をもつ相手を、自分があらかじめもっていた類型にあてはめることで秩序の回復をはかりやすい。いったん「彼ら」に類型をあてはめてしまえば、その後は一人ひとりにむかいあう面倒をはぶいて、一種類の対応をすればすむようになる。そして、制度的秩序の始まりが自己自身と他者の行動を類型化することにある以上、「彼ら」の類型化と同時に、「われわれ」自身の類型化も行なわれる。